声・まっくら森

天寧煌子の詩置き場

花壇の物語

長く重苦しい冬の年月は
透明な患いを吹雪にのせ
ぽとりと吐息をこぼしました
主は誰かに対して何かの意図をもって
嘆息したのではないのです
ひとりでの出生でございました
歓待のまろやかな呼び声
拍手にちぎれる艶やかなリボンに
騙されてはなりませぬ
調和の中に断絶が隠されております
パトロンが産着を高く持ち上げようとも
これは観賞の花壇に埋め込まれた
不機嫌な爆弾
薄汚れた排泄なのですから
あなたが顔をしかめないはずは
ないのです
主の目は既に遠くに去り
花壇を冷ややかに眺めております
それでも主は撒かれた種の行く末を
冬の嘆息が大地に投げかけた疑問を
錆びた谷底の隙間から
横目でたしかに見渡しているのです

 

(2017.7.16)


<訳>
長く心を病んでいて、フッと詩ができた。
誰にともなく自然に出た言葉であった。
ようこそようこそおいでやす、
そんな雰囲気に惑わされないで。
私の作品を評価してくださる人もあってありがたいが
ここにあるのはショーウインドウに飾られた
爆弾や排泄物のようなものだ。
作者の心は既にここにないが、
世間に投げかけた疑問の行く末を観察している。

 

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この詩は、現在展示中の詩です。
どこにどう展示してあるかというのは、めんどくさくって今は書きませんが。
なぜ訳をつけたかというと、どうも私の詩は他人から見て「ワカラナイ」のではないかと、疑念を抱くからです。

 

二人はだいたいわかると申されました。どちらも文学出身の方。
一人は途中まで読まれてリタイヤ。
一人は訳を頼むと。
残り99%の来場者は素通りです。
やはり自分の詩は、ひとりよがりでわかりにくい表現になってしまっているのでしょうか。
ということで、訳をつけてみました。

 

できたてホヤホヤの詩というのは、私にとっては、信用ならないものです。
おそらく数週間後、数年後には、言霊が、ここを直してと騒ぎ立てるでしょう。
その声との対話が詩作の正念場です。

「騙されてはなりませぬ」って言葉、なんとかならないか。

言霊が、既に文句を言っております。

 

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ピンボケしていてすみません…

だるまの無言

手足なく

口のきけないだるまは

地べたをころがりながら

からだで詩を吐く

だるまの無言は

とうといんだ

 

(2017.7.17)

 

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【ひとこと】

「地べたを這いずりながら」のほうがいいかなぁ?

「地べたをころがりながら」のほうが自然かなぁ?

と迷いながら、今も言葉定まらず。

詩日記:普遍の掌に爆発する特殊

 2000年頃から、苦しくなると詩のような言葉を吐かずにはいられなかった。自分の詩がヘタクソであることは、5、6年前からよく知っていた。2015年に作品をブログにまとめたが、それはいかにも稚拙でヒステリックな叫びだった。2016年冬、「詩」といえるようなものができたと思った。そしてようやく、2017年最近のことだ、詩を書く人間としての自覚が出てきた。今年になってようやく、詩が書けた感があったのである。


 詩の展示をする、詩集を出版する。このきっかけのために、私は急に詩の世界に目覚めていった。詩人の自覚ができてから詩集を出版するのではない、詩集の出版をするから詩に向き合わざるを得なかったのだ。そして私は、自分の作品があまりにも詩として足りなさすぎることに気がついた。つい最近のことだ。私の詩は、個人的な苦しみをヒステリックにわめいているだけで、自分から離れていなくて、作品として独立していない。どだいこれは詩ではない、詩ですと人に言えるほどのレベルではなかったのだ。詩には詩の世界がある。私の文章は、自分史として整ってはいるかもしれないけれども、詩とは微妙に似て非なる表現だったのだ。


 吉本隆明の詩に出会ったのはつい2週間前、6月中旬のことだ。八木重吉の詩に感動したのも4月だったか、ともかく最近だ。それまで私は、本気で詩に恋していなかった。詩というものを知らず、ひたすら自己流に自己流に言葉を連ねていただけだ。それは詩だったのか? それはただの日記だった、それはただの自分史だった。


 谷川俊太郎は宇宙的な普遍を書けという。私は、普遍から外れる宿命を負い、異文化ギャップという見えない壁をもって生まれた。ほとんどの人には理解できない障碍だ。人が違ったあり方をするのは当たり前のことだ、だが私の「違い方」は常軌を逸している。強烈な、爆発するような違和感を常に感じる。自分は本当に人間なのだろうか? この特殊の極致の感覚を書こうとすれば、詩から外れる。私は詩の根本的なあり方からズレているように思えてならない。しかし違和感が苦しいのだ。苦しいと、詩を書きたくなる。詩を書けば、普遍から外れる。詩に近づけば近づくほど、私は詩をもてあます。


 最近、自分の中の普遍に通じる部分を選んで書いている。しかし、まだそこから外れる感覚はなかなか書けない。書いても発表するのがためらわれる。詩の普遍プレッシャーが足枷となる。しかし、普遍の理解はできる。ついていかないのは感覚だ。この爆発するような違和感を、人と共有できない苦しみの詩を、どう表現すればいいのか?

 

(2017.7.3)

悪の糸

アンタが悪い

んじゃない

こんがらがった糸が

悪いんだ

 

(2017.6.29)

蟻の欠落

蟻は山の巨大を知った

蟻は体の小粒を知った

 

  歌を歌えば歌うほど

  歌は足りない

  言葉を手繰れば手繰るほど

  言葉は足りない

 

捻りなく

ただありのままをかたどるだけが

蟻の仕事だった

ときには己の住処さえ

うっかり零してしまうこともあった

勢いばかりの野暮天は

堂々たる建築を前に

紅潮していた

 

我流でなければすくい取れない直截が

そこにあった

まわりくどい技巧よりも

真理を一散に彫刻する意思が

そこにあった

美の手際を見上げながら

然りとしか語れない足跡が

歩み来た隘路のまことを描く筆が

そこにあった

 

しかし蟻は

山のあまりに巨大を知った

体のあまりに小粒を知った

それでありながら

散乱した芥子の声は降り積もり

層は厚みを増していった

 

  歌を歌えば歌うほど

  歌は足りない

  言葉を手繰れば手繰るほど

  言葉は足りない

 

欠落の歌を

遅きに失して蟻は知った

 

(2017.6.30)

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<ひとこと>

山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」の心境。

分け入っても分け入っても分け入っても分け入っても欠落の青い山は連なる。

こよい本ができる

こよい手製の

本ができる

めんどくさい

階段ひとまたぎの

てっぺんを

ぐわっと

たぐり寄せたい

 

(2017.6.27)

うめき

へたでも しろうとでも

これをかかないでは

いきていられなかった

すごみのあるほんが

みたいのです

そういうほんは

おくにおいやられて

うまい りっぱなほんが

おもてにのこっているのでは

ないのですか

せんそうをかたりつぐのは

もちろんとてもだいじです が

きょうかしょにのらない

ひとりのにんげんのうめきを

これをかかなければ

しんでしまった

かくことによって

かきてのいのちをすくった

すくえた かもしれない

そういううめきを

よみたいのです

 

(2017.6.22)