地底の声

世の中からズレてる人の書いたもの(詩・エッセイ・日記など)

詩:花壇の物語

長く重苦しい冬の年月は

透明な患いを吹雪にのせ

ぽとりと吐息をこぼしました

冬は誰かに対して何かの意図をもって

嘆息したのではないのです

ひとりでの出生でございました

歓待のまろやかな呼び声

拍手に千切(ちぎ)れる艶やかなリボンに

化かされてはなりません

調和の中に断絶が隠されております

盾の手が産着を高く持ち上げようとも

これは観賞の花壇に埋め込まれた

不機嫌な爆弾

薄汚れた排泄なのですから……

冬の眼差しは既に旅立ち

花輪を薄目に眺めております

それでも冬は撒かれた種の行く末を

嘆息が大地に投げかけた疑問を

錆びた谷底の隙間から

横目でたしかに見渡しているのです

 

 

(2017.7.16)

(2020.12.31推敲)

 


<訳>
長く心を病んでいて、フッと詩ができた。
誰にともなく自然に出た言葉であった。
ようこそようこそおいでやす、
そんな雰囲気に惑わされないで。
私の作品を評価してくださる人もあってありがたいが
ここにあるのはショーウインドウに飾られた
爆弾や排泄物のようなものだ。
作者の心は既にここにないが、
世間に投げかけた疑問の行く末を観察している。

 

 

この詩は、現在展示中の詩です。
どこにどう展示してあるかというのは、めんどくさくって今は書きませんが。
なぜ訳をつけたかというと、どうも私の詩は他人から見て「ワカラナイ」のではないかと、疑念を抱くからです。

 

二人はだいたいわかると申されました。どちらも文学出身の方。
一人は途中まで読まれてリタイヤ。
一人は訳を頼むと。
残り99%の来場者は素通りです。
やはり自分の詩は、ひとりよがりでわかりにくい表現になってしまっているのでしょうか。
ということで、訳をつけてみました。

 

できたてホヤホヤの詩というのは、私にとっては、信用ならないものです。
おそらく数週間後、数年後には、言霊が、ここを直してと騒ぎ立てるでしょう。
その声との対話が詩作の正念場です。

「騙されてはなりませぬ」って言葉、なんとかならないか。

言霊が、既に文句を言っております。

 

 

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ピンボケしていてすみません…

詩:だるまの無言

手足なく

口のきけないだるまは

地べたをころがりながら

からだで詩を吐く

だるまの無言は

とうといんだ

 

(2017.7.17)

 

 

【ひとこと】

「地べたを這いずりながら」のほうがいいかなぁ?

「地べたをころがりながら」のほうが自然かなぁ?

と迷いながら、今も言葉定まらず。

詩日記:普遍の掌に爆発する特殊

 2000年頃から、苦しくなると詩のような言葉を吐かずにはいられなかった。自分の詩がヘタクソであることは、5、6年前からよく知っていた。2015年に作品をブログにまとめたが、それはいかにも稚拙でヒステリックな叫びだった。2016年冬、「詩」といえるようなものができたと思った。そしてようやく、2017年最近のことだ、詩を書く人間としての自覚が出てきた。今年になってようやく、詩が書けた感があったのである。


 詩の展示をする、詩集を出版する。このきっかけのために、私は急に詩の世界に目覚めていった。詩人の自覚ができてから詩集を出版するのではない、詩集の出版をするから詩に向き合わざるを得なかったのだ。そして私は、自分の作品があまりにも詩として足りなさすぎることに気がついた。つい最近のことだ。私の詩は、個人的な苦しみをヒステリックにわめいているだけで、自分から離れていなくて、作品として独立していない。どだいこれは詩ではない、詩ですと人に言えるほどのレベルではなかったのだ。詩には詩の世界がある。私の文章は、自分史として整ってはいるかもしれないけれども、詩とは微妙に似て非なる表現だったのだ。


 吉本隆明の詩に出会ったのはつい2週間前、6月中旬のことだ。八木重吉の詩に感動したのも4月だったか、ともかく最近だ。それまで私は、本気で詩に恋していなかった。詩というものを知らず、ひたすら自己流に自己流に言葉を連ねていただけだ。それは詩だったのか? それはただの日記だった、それはただの自分史だった。


 谷川俊太郎は宇宙的な普遍を書けという。私は、普遍から外れる宿命を負い、異文化ギャップという見えない壁をもって生まれた。ほとんどの人には理解できない障碍だ。人が違ったあり方をするのは当たり前のことだ、だが私の「違い方」は常軌を逸している。強烈な、爆発するような違和感を常に感じる。自分は本当に人間なのだろうか? この特殊の極致の感覚を書こうとすれば、詩から外れる。私は詩の根本的なあり方からズレているように思えてならない。しかし違和感が苦しいのだ。苦しいと、詩を書きたくなる。詩を書けば、普遍から外れる。詩に近づけば近づくほど、私は詩をもてあます。


 最近、自分の中の普遍に通じる部分を選んで書いている。しかし、まだそこから外れる感覚はなかなか書けない。書いても発表するのがためらわれる。詩の普遍プレッシャーが足枷となる。しかし、普遍の理解はできる。ついていかないのは感覚だ。この爆発するような違和感を、人と共有できない苦しみの詩を、どう表現すればいいのか?

 

(2017.7.3)

詩:蟻の欠落

蟻は山の巨大を知った

蟻は体の小粒を知った

 

  歌を歌えば歌うほど

  歌は足りない

  言葉を手繰れば手繰るほど

  言葉は足りない

 

捻りなく

ただありのままをかたどるだけが

蟻の仕事だった

ときには己の住処さえ

うっかり零してしまうこともあった

勢いばかりの野暮天は

堂々たる建築を前に

紅潮していた

 

我流でなければすくい取れない直截が

そこにあった

まわりくどい技巧よりも

真理を一散に彫刻する意思が

そこにあった

美の手際を見上げながら

然りとしか語れない足跡が

歩み来た隘路のまことを描く筆が

そこにあった

 

しかし蟻は

山のあまりに巨大を知った

体のあまりに小粒を知った

それでありながら

散乱した芥子の声は降り積もり

層は厚みを増していった

 

  歌を歌えば歌うほど

  歌は足りない

  言葉を手繰れば手繰るほど

  言葉は足りない

 

欠落の歌を

遅きに失して蟻は知った

 

(2017.6.30)

 

 

<ひとこと>

山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」の心境。

分け入っても分け入っても分け入っても分け入っても欠落の青い山は連なる。

詩:うめき

へたでも しろうとでも

これをかかないでは

いきていられなかった

すごみのあるほんが

みたいのです

そういうほんは

おくにおいやられて

うまい りっぱなほんが

おもてにのこっているのでは

ないのですか

せんそうをかたりつぐのは

もちろんとてもだいじです が

きょうかしょにのらない

ひとりのにんげんのうめきを

これをかかなければ

しんでしまった

かくことによって

かきてのいのちをすくった

すくえた かもしれない

そういううめきを

よみたいのです

 

(2017.6.22)

私の詩について

「汚れ役」

 

昼の憧れ

鈴のように歌い

喜びの音を 軽やかに鳴らす

しかし絵筆は それ以上の仕事をしてはくれない

わがことにあらずと そっぽをむく

 

夜の苦しさ

心の澱にうごめく闇を

すくい取るのは きまって言葉の役目

絵筆の放棄した仕事を

拾っては投げつける

 

絵筆にできない汚れ役

絵筆に描けない汚れ役

 

 

◆暗い詩

 私は、詩のほかに絵という方法で自己表現することがあります。その際、明るさ・希望などのポジティブイメージは絵に出て、暗さ・つらさ・絶望などのネガティブイメージは詩(言葉・文章)に出ます。逆はあまりありません。暗い絵も、明るい詩もあまり書・描きません(かけません)。

 私にとって文章は、自分の中にある心の病み・闇をリアリスティックに描き出すことで自分自身を癒す役割を負っています。だから、この詩ブログは、どうしても暗いイメージが優勢になります。

 また現実生活では、切迫した状況で葛藤していることが多く、そうした現状をありのまま描き出そうとして、希望がなく痛々しい描写をしがちです。明るい空想の世界で自由に遊ぶよりも、出口のない苦境をリアルに再現することで、自分を救いたい気持ちが強いのです。

 

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 「異端者の詩」

 

平均からかけ離れた

特異なる感性を掲げる異端者ゆえに

人類とは共通点少なく

その文学に共感すること少なくして

わたしの詩にも

意味不明の受け入れがたき襞が

他人をして立ち入らせないであろうことは

想像に難くない

 

しかしこの文字の羅列は

たとえば桜散る情緒を

杯を交わす連帯に招待する手紙ではなく

わたしが生きた一篇のあかしであり

心象と語彙の稚拙に足掻きつつも

ひとりでに刻みつけずにはいられなかった

まったく我流の営みである

 

どうかわたしの詩を

わずかなりと感性の近しい奇特なる読者に

発見してもらいたいと心に願う

 

 

◆独特の感性

 私は、独特の感受性を持っています。ものの見方や感じ方が多くの人と異なる場合が多いのです。それゆえ他人に共感しづらく、他人もまた私に共感しづらいこともあるでしょう。読者が私の詩を読むと、ひとりよがり、意味不明、理解しがたいと感じるかもしれません。

 

 以上のようなわけで、私の詩は決して万人受けはしませんが、まさに経験が独特であるがゆえに、文字を刻まずにはいられなかったのです。

 内容が伝わる読者が存在すれば、私にとってこの上ない喜びです。

詩:国境

おそらく君が君であろうとして

踏みしだいた足下は

僕が僕であろうとして

築いた牙城の本丸だった

 

もう幾度も 国境を定めてきたが

制止の声を聞いてか聞かずか

君は遂に 踏み越える禁忌を

なおざりにし通した

 

旗を折られた本丸の大将は

怒り狂って出陣した

この粗野な闖入者を

永遠に侵入禁止にするため

結んだ手を引きちぎった

大将を駆り立てた力は

おそらく君の踏みしだく力と

同じ類いのものだった

のに

 

  君ガ協定ヲ

  守ッテクレナカッタカラ

  泣ク泣ク僕ハ……

 

おそらく君が君であろうとして

踏みしだいた足下は

僕が僕であろうとして

築いた牙城の本丸だった

おそらく もう確かめる術がないからおそらく

 

君よ 次は君の寂しい力を

かたちよく引き受けてくれる

風で さいわいであれ

 

(2017.6.14)

詩:無言の言葉

なぜ今頃になって 叫ぶのか?

在りし日の わたしの無言よ

書を遠ざけ 文字を退けて

ただ己の闘いを 耐え忍ぶだけで

尊い一日は暮れていった――

表には 緘黙をもって心を遮断し

巨大な沈黙が 荒野を満たした

 

なぜ今頃になって 語るのか?

在りし日の わたしの無言よ

書を遠ざけ 文字を退けて

発声を断念せしめた

想念の宇宙の最果てから

頑固な言葉の放擲は

無言のうちに 何を祈念していたか?

 

無言 そういう言葉だった

無言 そういう表現だった

そのようにして

無言は 自明に語られた――

 

(2017.5.16)

『声・まっくら森』に収録

詩:推敲推敲また推敲

推敲推敲また推敲

推敲ばかりしております

一体いつになったらば

言葉はピタリ嵌まるでしょう

 

推敲推敲また推敲

推敲ばかりしております

何回チェック重ねても

まちがい見出しまた一つ

 

推敲推敲また推敲

推敲ばかりしております

足し算引き算こねくって

生き物みたく動きます

 

推敲推敲また推敲

推敲ばかりしております

あるべき言葉の揺りかごが

どうやらどこかにあるらしく

 

推敲推敲また推敲

推敲ばかりしております

これで最後と思うても

なぜだかやはり変えたくて

 

推敲推敲また推敲

推敲ばかりしております

いい加減にて終わりたい

才能なき身ゆえならず

 

(2017.6.5)

『声・まっくら森』に収録

詩:十方塞がりを描いた結末

四方八方ならぬ十方塞がりの

ドウにもコウにも方途がつかぬ

行き詰まりのこの現状を

忠実に描き出したいと願ったが

掘りあてる言葉は当然ながら

希望のきらめく余地のない

圧迫した様相であったとさ

みんなみんな望みがほしい

その歌は市井に顧みられず

ここから出たいという光すら

こぼれ落ちなかったリアリズムを

なまのまま追求した歌い手は

とうとう人前で歌わなくなったとさ

 

(2016.11.28)

『声・まっくら森』に収録

詩:ずぶといひと

ずぶといひとよ

お前はとうとう勝利をおさめるのか

お前たちのなかには微笑ましい者もいて

ずいぶん憧れもした、手を伸ばそうともした

けれどもお前とはけんけんがくがく

どうにかこうにか接地点を探っていたものだが

その片手はとうとう勝ち誇ったように

一切を薙ぎ払ったように見えた

その手はいかにも権力を得た者のように

いらだちと栄光に満ちていた

ずぶといひとよ

お前はとうとう勝利をおさめるのか……

 

(2016.2.29)

『声・まっくら森』に収録