地底の声

世の中からズレてる人の書いたもの(詩・エッセイ・日記など)

エッセイ:ニコン全消去の悲劇

 撮って撮って撮りまくったニコンデジタルカメラの愛蔵データがすべて――消え去った。二千枚近くはあったろうか。

 消去したい画像を表示させて機械右下の削除ボタンを押すと、ディスプレイ上に、上段に「表示画像」、中段に「 削除画像選択」、下段に「全画像」を選択するメニュー画面が出る。いつも失敗画像を削除するときは 、上段の「表示画像」を選択する。しかしこの時は、操作する右手のマルチセレクターを回す指が滑って全画像消去を選択してしまい、一枚を消去するつもりで、ぼんやりOKの指示を承諾してしまったのである。

 以前愛用していたサービス精神満載のキャノン機種では滅多に触らない階層にあったのに、ニ コンは融通のきかない無骨野郎である。こんな頻繁に操作する階層に「全画像」消去メニューを配置しないでいただきたい。マルチセレクターが滑ったら一巻の終わりだろうが、というか既に 一巻終わったんだよ! と号泣したい心地だった。

 せめて、全消去が実行されるまで慎重に慎重を期するコマンドにしてほしかった。

 

デジカメ:「全消去しますか?」
ユーザー:「OK」
デジカメ:「一枚画像ではなく、全データですが、よろしいですか?」
ユーザー:「OK」
デジカメ:「もう二度と、復元されませんが、よろしいですか?」
ユーザー:「OK」
デジカメ:「本当にそれで、よろしいですか?」
ユーザー:「OK」
デジカメ:「あとで後悔しませんか?」
ユーザー:「OK」
デジカメ:「そこまで言うなら、消去しますが、異論はありませんか?」
ユーザー:「OK」
デジカメ:「思い残すことは一切ございませんか?」
ユーザー:「OK」
デジカメ:「では、実行します」
ユーザー:「早くやれよ!!」

 

 ここまで厳重であれば、間違えて、全消去することも、なかったのだ……。

 

(2013.2.10)

 


【ひとこと】
 過去の日記を整理していたら、いつも書いているダークな作風と毛色の違う文章が出てきたので、エッセイ風に再構成してみた。

感想:『拒食症の家』を読んで

『拒食症の家』吉川宣行著、1998年発行、EPIC


 日本自分史センターにて、詩「うめき」と同じ内容を職員に訴えて、閉架書庫から出してもらった自分史。一読してこれは凄い、入手したいと願う大満足の本だった。
 家族との葛藤を通して、少女が拒食症になっていった過程、自分、親、きょうだいに課せられた人生の意味を探る一冊。自分に当てはめても、隣人に当てはめても、社会に当てはめても参考になる記述が満載だった。拒食症の心理もよくわかった。
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親に本当の私を見せていない。本当の私を自分でさえ認められない。拒食症はここから始まる…。拒食症の少女を通じ、日本人の教育のあり方、その問題を考える。-Amazonの商品説明より-
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 第一印象。主人公は優希という女性だが、著者は男性名を名乗っている。性別を捨てたのだろうか? と不思議に思った。また、若くして書かれた自分史だが、自己を客観的に見つめる悟性と整った文章に引き込まれた。

 

 いったん拒食症になると、元の人間に回復するのにたいてい四、五年はかかるということです。そして、私がD塾も半年で辞めたときには、体重もついに二七キロになっていました。さすがの父も声を失ったようでした。私は鏡の前で、うっとりとそのミイラのような体にみとれることが日課となっていました。
 父はそういうとき、私に確認するかのように、訊いていました。
「ほんとうに、そういう姿に、誇りをもてるのか。」
 私は笑みを浮かべて、鏡の中の私から目を離すことなく言いました。
「ここまで来るのは、大変だったんだから。」
 その時の私の横顔は、ほんとうに輝いていたそうです。(105頁から引用。以下小文字は引用文)


 受肉の拒絶を完遂する栄光に酔いしれている様子が伝わってくる。

 

 優希は、弱者に関心がなく偽善的な母、頑張って栄光を勝ち取ることしか頭にないバリバリの教師である母の愛を求めて、得られない。しかし母の血を受け継いで利己的であり、嘘を吐き、勝つことだけが目的の彼女は、若い頃からキリストの教えに親しみ、善良で、人間性を大事にする父、真実を命かけて求める父の、あまりの「正しさ」に反発する。
 母に受け入れられず、父のようにもなれない。 「父の言葉は説教でしかなく、私は窮地に追い込まれるのでした。」(135頁)
 不登校、家出、自殺未遂を繰り返し、自滅していく優希。

 少なくとも、私にとっての肉とは、非常に汚らわしいものであり、しかもその汚らわしさというのは、今まで、ほんもののと思っていたのに、そうではなく、ニセモノの肉であった、そういう肉で太るということが、たまらなく嫌だったのでした。
 つまり私は、そういった形で、自分のかつての姿も、そして両親の姿も告発していたのでした。それはひとことで言えば、私の両親は、決して妥協ができない取り合わせなので、私にしてみれば、仲良く妥協して欲しいと言いたかったのではないかと思います。
 ところが現実では、現実主義者の母の常識と、理想主義的な父の間の溝は、どんなに歩み寄っても、永遠に埋まりはしないのだと、私ものちに知ったのでした。
(中略)娘の私は、そうしたふたつの性質がひとつの体の中で、相争うわけです。これこそ宿命ではなくて何であろうと考えたことがあります。(133頁)
 
 父はやがて、羞恥心や後悔がなく、痩せることだけを快楽にしている優希の中に悪霊を見出すようになる。 「ただ直感が鋭いというだけなら、よくあることだが、とても普通の人には真似のできない鋭さが優希にはある。ということは悪霊が付いているのではないか……。」(172頁)

 真実を追求する性分がある私(天寧)にも、優希の父語録は金言として重宝できる。しかし、そうした非の打ち所がないとも思われる父の「立派さ」は、優希には脅威でしかない。父は悪霊の存在を見破っても、自我分裂に震えている優希を救うことはできない。
 父は病に倒れ、優希を正しさで教化しすぎたのではないかと悔いる。そして、優希に最後の言葉を残して死んでいく。
 「ひとの歩むべき道というものを、真理というなら、そういう真理は学校でも家庭でも十分に教えている。しつけとは、そういう真理の道を歩けるように、あらかじめ教えておくものであるとするなら、しつけがなされたあとに、穴の開いた服ができたということは、もはや、しつけをした「人」か、あるいは、そのしつけの「糸」が問題だ。
 優希をしつけたのは、陸上部の顧問であり、わたしだ。どちらも、もちろん「しつけ糸」を使ったわけだが、その「糸」が布地そのものを、食いちぎったりして、服をぎこちなくしてしまった。「しつけ」は、あくまでもこれから縫い上げるところの仮縫いだから、その縫い方は大らかで、「しつけ糸」もあとで取り易いものであるはずなのに、私たちの場合は、「しつけ糸」そのものが、幅をきかせてしまったようだ。」(206頁)

 

 著者の語りに凄みを感じるのは、父から悪霊の存在を指摘された人間みずからが、業の深さを語っていることである。人を蹴落としてでも勝ち抜く栄光を快楽にして偽善的に生きる母の性質を強く受け継ぐ娘でありながら、母とは正反対の世界を生きる父につまづいて、拒食症になるほど行き場を失う。

 ヘビからはヘビが生まれ、そしてそのヘビは、まだ死ぬこともなくこの世にいる。それと同じく、私もまた、死んでも死にきれない先祖から生まれ、当然、私もそういう命でしかない。そして、もし、生まれながらに誇りがあるとすれば、その誇りもまた、まだ死にきれない命を守るための誇りであり、そういう誇りがこの世に満ちれば、もはや、誇りと誇りがぶつかり合う闘争しかないのではないか。(224頁)

 ただ、今はっきり言えるのは、私には当時、心のふるさとがなかったということです。いえ、かつてはあったのですが、二つに分裂した私をまるごと包み込んでくれる、暖かいふるさとがなかったのでした。父も母も、それなりに自分の道を進んでいますが、父のふるさとも母のふるさとも、私のものではありません。(中略)父を求め、母を求め、しかし、どちらも自分のふるさとではないとなれば、どうなるか。あとは自滅を望むか、人のふるさとをぶち壊すかの、どちらかではありませんか。(212頁)

 

 第三者の目から見ても、父よりもがぜん母に近しい魂を持っている優希であるから、そのまま母の生きる世界に行ってしまってもよさそうなのに、彼女は壊れていくばかりである。キリストの意思を受け継ぐ存在である父が、彼女を脅かすのである。
 人間の業、善と悪との死闘をみる。悪霊の目で善に向き合うとは、どれほど苦しい業だろうか? もし生まれながらにして、自分に逃れられない業があるならば、それに立ち向かうことは、なんと過酷な宿命だろうか。
 著者は、のちに伝道者になったそうである。

(2017.7.31読了)

表出vol.1 声 まっくら森レポート

 2017年7月15日(土)~7月23日(日)、池田町の土川商店「場所かさじゅう」にて表出vol.1 声 まっくら森が開催されました。

 

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 以下は、出品者の一人・天寧煌子目線のドキュメントです。ほぼ日記的内容になっています。

 

◆7月15日(土)
今回、天寧がメインに出す作品の意図とテーマ「まっくら森」の理念にズレがあったという事情もあり、あまり乗り気でないところからスタート。
どうせ誰も来ないだろう……と思っていたら、朝から盛況の模様。
出ル杭のクマさんの関係者Tさんに詩集もポストカードもたくさん買っていただいた、ありがたい。
この日の来場者は、クマさん関係者が多かったようだ。
ありがたいが、持ち上げられるのは苦手(それで帰宅後、「花壇の物語」を書く)。
客足が、一緒に展示しているオカムラさんのインパクトの強い書に吸い寄せられる。
穴ぐらの奥にある叫びは表通りのパレードにかき消されてしまうのか、とショック。

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 オカムラさんの作品はインパクト大。

 

◆7月16日(日)
正午、案内を出したIさんとKさんが来たと連絡あり。
冊子の増刷に追われていたので、昼過ぎまで待ってもらう。
Iさん・Kさんと顔合わせ。そこへEさんも加わる、さらに夕方Nさんも。
クマさんが中心で詩を朗読してくれる。
こんな「ろくでな詩」を手にとって読んでくださるなんて、しかも神妙に聞いてくださるなんて……感無量。
読者が前にいて大変ありがたい、充実した一時。
Nさんは私と同じ当事者。自己表現に困難がある方だが、同じ感性を持っている。
早速wordで打ち出した「歌壇の物語」を壁に貼る。

 

◆7月17日(月)
ポストカードが12枚売れる。
以前、一度相談に乗っていただいた精神保健関係者のHさんが来てくれた、とてもありがたかった。
無理に来させてしまったかもと思うと、少々心苦しい。
これまで語れなかった体験を打ち明けることができた。
神妙に聞いてくださって嬉しかった、泣いてしまった(Hさんの前では自然と無防備になってしまう)。
その静かな横顔が強く印象に残った。
しかしその後、自分を訪ねてきた人以外の客の無視が続いてこたえる。
一生懸命に趣旨を説明するが、ぬかに釘。
社会に訴えたい一番大事なエッセンスが素通りされる。
控室で吉本隆明の「転位のための十篇」「定本詩集Ⅳ」を読む、とても身につまされる。
ノートに詩の素になる言葉を書きためる。
もう、ここに来たくはない(モチベーションダウンが早い!!)。
この感じを詩にせずして明日から来ることはできないだろう。
帰宅後、展示以前の過去の体験も絡めながら「屠る歌」を書く。
いろんな体験や感情をミックスして詩にしているので、多少フィクション化している。
書き上げると落ち着いた。

 

◆7月18日(火)
昼過ぎにU夫妻が来るとわかっているのに、会場に行く憂鬱からだんだん足まで重くなってしまって、身体がなかなか動かない。
ああ、行きたくないとしぶっている間に、もう着いたと連絡あり。急いで車を走らせる。
重度障害を負ったUさんと夫人。密度の濃い大人物と語れる嬉しさ、充実した一時。
U夫妻の話は毎度勉強になる。背筋がシャキッとするし、頭も下がる。

クマさんを訪ねてきた政治家のW氏はさすがに口が達者。

平日なのに詩集が8冊、ポストカード15枚はける。お愛想ではなかろうか……?

帰宅後、今回発表した詩に書いた体験事情を知っており、以前熱心に相談に乗ってくださっていたYさんが、17日の午前に来ていたとメールで知る。
詩の内容がダイレクトに伝わったと感じた第一人者、感激する。
帰宅後、U夫妻やHさんを思い浮かべながら「胸騒ぎ」を書く。

 

◆7月19日(水)
気が塞いで、本格的に、ものすごく、行きたくない……。足が重い、重すぎる。
午前、Iさんからクマさんへ、20日(木)と21日(金)に、Iさんの文学仲間が来ると連絡あり。
夕方、××NPO法人ののJさんが来る。
ふだんあまり話さないJさんが自分のことを語ってくれた、私も現状に至ったわけを話せたのがとても嬉しい。

こういう場でないと話す機会がなかった。
××NPO法人にポストカードを渡す、自作のふざけた内容の短編小説を渡しそびれた。
Eさんが知人に展示の内容を紹介してくれた。
帰宅後、「晴れ間の急迫」を一気に書く。
「穴ぐらと重力」も書き進める。
この風刺的な作品を仕上げれば、心の支えになり、展示を乗り切ることができるだろう。

 

◆7月20日(木)
あと何日あるのか? 相変わらず足が重くて仕方ない。
Iさんの文学仲間ら(私は知らない)が既に帰った後。
Tさんからの詩集の感想文をいただく。
精神保健関係のEさん、続いてMさんが来る。
落ち着かなそう、こちらの雑談がうまくなくて申し訳ない。
あ、詩集の日記の部分を読んでくれた、しかも買ってくれた。
ありがたいけど、なんだか申し訳ない。
帰宅後、Tさんの感想文を読む。
初めて読者からの本格的な感想をいただいた。
内容がいっちゃってる……一人ニヤニヤ。
帰宅後、Hさんの横顔を思い浮かべながら「客人」を書く。

 

◆7月21日(金)
相変わらず足が重い……。
Tさんが来るというので、なんとか昼過ぎ出動。
精神保健関係のAさんが来ており、嬉しかった。
あの界隈に失望しそうになっていたので、まだ見切りをつけるのは早いかもしれないと思い直した。
Aさんに「客人」を見せると「そういうふうに作品を読んでいた」と言われ、作品を見てくれる人も丁寧に見なければと目が覚めた心地に。
人への不信感のいくらかをAさんがぬぐってくれた。
もう落ち込んでいる場合ではない、作品を読んでくれる人をスケッチするのに忙しいと立ち直ってきた。

Aさんのおかげだ。
Tさんに感想文の「真意」を確認する。
帰宅後、会期中に書いた詩の推敲を重ねて一冊の冊子にする(後述)。

 

◆7月22日(土)
クマさんがお疲れ、早退される。
土川商店のワークショップに来ていたNさんと初めて話す。
同苦の能力を持っているなあ、深い人間性が全身からにじみ出ているなあと感心した。
とても情感のこもった声で詩を朗読していただく、ありがたい。
近しい人の悲劇を語っていただいた。
ああまっくら森だ、とても姿勢が正される。
Gさんが来る。ようこそ。
多くの精神障害の人とかかわってきたせいか、初対面でわりと深いところまで相手を理解できる自分がいる。
中学時代の同級生Sさんが来る、5年ぶり? 近親者の悲劇の話が強く心に残る。
悲劇を背負った人に同苦する。
この日は一番濃密で勉強になった。

 

◆7月23日(日)
昼出動したら、詩集が売り切れていた、ありがたい。
クマさんもオカムラさんもみな疲れている。
会場内を一眼レフカメラで撮りまくる。オカムラさんの作品も撮る。
カメラマンの人が来ていて、黒っぽい絵を撮影する方法を教えてもらう。
絞りきるように客足が続く。
障碍障碍といわないほうがいいというご指摘、何人かから。
今は書かないが、異論あり。
人一倍孤独癖が強いのに、関係の門戸を開放しすぎた。
あと1年ぐらいは誰とも話したくない心境だ……。
会期終了、片付け。

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 以上の内容を、「展示会場即興スケッチ小詩集」にまとめました。
 会期中に書いた、
「花壇の物語」
「屠る歌」
「胸騒ぎ」
「晴れ間の急迫」
「穴ぐらと重力」
「客人」
に、「はじめに」と「あとがき」がついて一冊になっています。
 ただし、もう会期は終了したので、私の知人しか入手する手立てはありません。
 こういうのをつくったという報告のため、写真を載せておきます。

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 乗り気でないまま展示が始まって、足が重い重いとぐずっている間に、毎日のように、というかまさに毎日、誰かが訪ねてきてくださいました。ふだんあまりにも没交渉すぎるので……数年のコミュニケーションを数日で済ませた気分です。
 文学仲間に詩集を広めてくださったIさん。
 遠路はるばる足を運んでくださったKさん。
 作品に書いた過酷な体験中に情熱的に相談に乗ってくださったYさん。
 重度障害を負いながらしなやかに生きて、人生の奥深さを教えてくださるU夫妻。
 読字に困難があるのに、詩集を読もうとしてくださったEさん。
 自分の内面を語ってくださった××NPO法人のJさんとGさん。
 読者の後ろ姿を見せてくださったAさん。
 真摯に打ち明け話を聞いてくださったHさん。
 詩集の面白い感想文をくださったTさん。
 過酷な体験を打ち明けてくださったSさんとNさん。
 さらに初対面で詩集や小冊子を買っていただいた方、目立たない「穴ぐら」のような詩の展示スペースに足を踏み入れ作者の「声」を聞いていただいた方に、心から感謝を申し上げます。
 また「場所かさじゅう」の居心地よい雰囲気を提供してくださった土川さん、PROJECT・出ル杭のメンバー オカムラさんの精神力、クマさんの人と人をつなぐ心づくしによって「表出vol.1 声 まっくら森」が成立したのは間違いありません。
 重ねて感謝を申し上げます。

 

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直接ハガキを出させていただいた方以外にも感謝の気持ちをお伝えしたくアップロードします。

詩:客人

ここは小さい穴ぐら わたしの家

誰も立ち寄らないと

ついしょぼくれて つい寂しく

ついふてくされもして

それなのにきょう あなたは

ていねいな物腰で穴ぐらに進みきて

暖炉の前に手をかざしたりなどして

椅子に腰かけてくれる

その止まった背中に ほんのりこみあげる

口数少ないまなざしに ひっそり漂う

おくゆかしさ

でもそれは家主に会いにきた客で

客でない見知らぬひとの多くは やはり

穴ぐらを横目でチラとうかがって

何事もなかったかのように顔をそむける

家主をもとめて来たひとだけが

玄関口に足をすすめる

ただの通行人にはただの

暗い洞でしかない

そんなさびしい穴ぐらを 覗きこんで

ひととき正座までしてくれる

あなたの背中の たのもしさ

止まったしぐさの あたたかさ

もの静かな横顔の ありがたさ

 


(2017.7.20)

 


【ひとこと】
 かつて私の相談に乗ってくださったHさんがひっそりと訪ねてきてくれた。
その人の横顔を基調イメージとして、展示スペースを見てくれた人たちを思って書いた。
 あるとき、この詩を読んでくれたAさんが「そういうしぐさで詩を読んでいた。なぜわかったのか」と言った。私はAさんが詩を読んでいる姿をたまたま見ていなかった。
 Aさんの言葉になぜかとても打たれた。あなたが詩を読んでいる姿を見たかった、写生したかったと思った。もっと丁寧に、詩を見てくださる人の姿を写生しておけばよかったと後悔した。それをしなければならなかったとAさんは教えてくれた。

詩:穴ぐらと重力

薄暗い穴ぐらの奥まった 最も深い底の底

そこにわたしは置いてきた

窮迫したこわもての告訴状

かれらと千切(ちぎ)れた

たったひとつの千言を

どうしてもかれらに届けなければならない

いちばん尊い言伝(ことづて)を

 

だがかれらの歩幅は大きく

その歩調は早すぎて

ものの見事に穴を避(よ)ける

表通りのパレードは

上澄みを掬(すく)って通り去る

舞台の壇上が

楽屋の影をますます濃く沈めゆく

忙しい現代人はそそくさと

おのれの生活にかえっていくばかりだ

 

その戯画がありありと

楽屋裏のスクリーンに展開される

うらぶれた瞼の裏の映像――

ああ それこそがかれらと千切れた世紀の秘密なのだ

ああ それこそが隠された仕掛けの真髄なのだ

かれらは明らかにされていく秘密を

ふたたび生産している

遠い戦傷

追い縋(すが)る過去の怪奇映画

 

それでも一人二人

そろそろと穴ぐらに沈みかける人もある

きみに深く敬礼するばかりだ

きみの尻は飛ばされない重心をもっている

しかし多くのかれらはきみに似ていない

 

それにしても

こんな重大な置き手紙は厚く封をして

穴ぐらの最深部に置くしか方法がない

しかし かれらの尻は

穴ぐらに沈む重力をもたない

 


(2017.7.19)

(2021.3.3推敲)

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【ひとこと】
 社会に訴えたい一番大事な、奥まった底にあるエッセンスが届かないくやしさ。展示することによって、展示の意図が隠され、訴えたい問題が再生産される皮肉が出現する衝撃を描いた。

詩:晴れ間の急迫

行かなくてはならない

わたしの足どりは重い

過去の亡霊が立ち上がってくる

その亀裂が生じる瞬間が

まるい調和のなかから

ぎらと顔を突き出すのが

見えてしまうから

晴れた空が突然かげり

雨降る間もなく稲妻が落ちてくる

その急迫が光るのを

鮮烈に感触するから

 


(2017.7.19)

 

 

【ひとこと】
 来場者とほんの少し接触するだけでいろんなことをいっぺんに感知してしまう、鋭敏すぎるおそろしさ。

 また、まるいという言葉を使ってしまった……。

詩:胸騒ぎ

あまりにもまるい達成が続くので

もしやあなたを押し切ったまま

ひとり得意の終止符を発行して

すましているのではないかと

疑念がさわいでおります

 

あなたが少しばかり口をひらこうとも

さらにもの言いたげな峻烈の物語が

角張らない笑顔の後ろに

匿われているのでしょうね

 

もう少し 幕の撤去を

頂戴したかったのですけれど……

玄関の前でお暇するべきでしょう

難しい調和ですね

 

(2017.7.18)

 

 

【ひとこと:訳】
 今回の展示テーマは「まっくら森」。
 来場者と一見円満なやりとりが取り交わされるが、こちらばかりが主張してしまったようで気がとがめる。
 あなたの「まっくら森」をもう少し聞きたかったけど、踏み込むわけにもいきませんね。

詩:屠る歌

びりびりに引き裂いて散らばった嘆きを

ゴミ箱に屠る手をためらい

胸に抱えてもう一度抱きしめる

紙屑の端にはちぎれた無数の文字が

名残惜しげに繊維のうえにうごめいた

 

――いやだめだ お前は

間引きされる定めの子

日陰を歩む斜陽の嘆き

見たろう かれの素通りする足を

一瞥もくれない乾いた目を

だからその紙屑も後生大事に抱えてないで 肥溜めへ

ひといきにぶちこんでしまえ

陳列台から一つ残らず薙ぎ払い

マッチをつけて燃やしてしまえ

大空へ放り投げ太陽にくべろ

何ひとつ残すな

すべて すべてをだ

 

おお この反転!

愛するうたよ お前はいまや

価値を失った

おお 愛する嘆きよ

きみの瞳に映らない お前など無用だ

愛するお前を 憎まねばならぬこの無残を

愛するお前を 世界で最も忌まわしいものとして

指先でつまむ この震える手を

私は決して忘れまい

 

(2017.7.17)

 

 

【追記】

展示で嫌なことがあって、落ち込んでいたのですが、

吐き出した詩を見ていると落ち着いてきました。

 

これでお前を

救出することができたろうか?

よし よし すすんでゆけ。

 

詩:花壇の物語

長く重苦しい冬の年月は

透明な患いを吹雪にのせ

ぽとりと吐息をこぼしました

冬は誰かに対して何かの意図をもって

嘆息したのではないのです

ひとりでの出生でございました

歓待のまろやかな呼び声

拍手に千切(ちぎ)れる艶やかなリボンに

化かされてはなりません

調和の中に断絶が隠されております

盾の手が産着を高く持ち上げようとも

これは観賞の花壇に埋め込まれた

不機嫌な爆弾

薄汚れた排泄なのですから……

冬の眼差しは既に旅立ち

花輪を薄目に眺めております

それでも冬は撒かれた種の行く末を

嘆息が大地に投げかけた疑問を

錆びた谷底の隙間から

横目でたしかに見渡しているのです

 

 

(2017.7.16)

(2020.12.31推敲)

 


<訳>
長く心を病んでいて、フッと詩ができた。
誰にともなく自然に出た言葉であった。
ようこそようこそおいでやす、
そんな雰囲気に惑わされないで。
私の作品を評価してくださる人もあってありがたいが
ここにあるのはショーウインドウに飾られた
爆弾や排泄物のようなものだ。
作者の心は既にここにないが、
世間に投げかけた疑問の行く末を観察している。

 

 

この詩は、現在展示中の詩です。
どこにどう展示してあるかというのは、めんどくさくって今は書きませんが。
なぜ訳をつけたかというと、どうも私の詩は他人から見て「ワカラナイ」のではないかと、疑念を抱くからです。

 

二人はだいたいわかると申されました。どちらも文学出身の方。
一人は途中まで読まれてリタイヤ。
一人は訳を頼むと。
残り99%の来場者は素通りです。
やはり自分の詩は、ひとりよがりでわかりにくい表現になってしまっているのでしょうか。
ということで、訳をつけてみました。

 

できたてホヤホヤの詩というのは、私にとっては、信用ならないものです。
おそらく数週間後、数年後には、言霊が、ここを直してと騒ぎ立てるでしょう。
その声との対話が詩作の正念場です。

「騙されてはなりませぬ」って言葉、なんとかならないか。

言霊が、既に文句を言っております。

 

 

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ピンボケしていてすみません…

詩:だるまの無言

手足なく

口のきけないだるまは

地べたをころがりながら

からだで詩を吐く

だるまの無言は

とうといんだ

 

(2017.7.17)

 

 

【ひとこと】

「地べたを這いずりながら」のほうがいいかなぁ?

「地べたをころがりながら」のほうが自然かなぁ?

と迷いながら、今も言葉定まらず。

詩日記:普遍の掌に爆発する特殊

 2000年頃から、苦しくなると詩のような言葉を吐かずにはいられなかった。自分の詩がヘタクソであることは、5、6年前からよく知っていた。2015年に作品をブログにまとめたが、それはいかにも稚拙でヒステリックな叫びだった。2016年冬、「詩」といえるようなものができたと思った。そしてようやく、2017年最近のことだ、詩を書く人間としての自覚が出てきた。今年になってようやく、詩が書けた感があったのである。


 詩の展示をする、詩集を出版する。このきっかけのために、私は急に詩の世界に目覚めていった。詩人の自覚ができてから詩集を出版するのではない、詩集の出版をするから詩に向き合わざるを得なかったのだ。そして私は、自分の作品があまりにも詩として足りなさすぎることに気がついた。つい最近のことだ。私の詩は、個人的な苦しみをヒステリックにわめいているだけで、自分から離れていなくて、作品として独立していない。どだいこれは詩ではない、詩ですと人に言えるほどのレベルではなかったのだ。詩には詩の世界がある。私の文章は、自分史として整ってはいるかもしれないけれども、詩とは微妙に似て非なる表現だったのだ。


 吉本隆明の詩に出会ったのはつい2週間前、6月中旬のことだ。八木重吉の詩に感動したのも4月だったか、ともかく最近だ。それまで私は、本気で詩に恋していなかった。詩というものを知らず、ひたすら自己流に自己流に言葉を連ねていただけだ。それは詩だったのか? それはただの日記だった、それはただの自分史だった。


 谷川俊太郎は宇宙的な普遍を書けという。私は、普遍から外れる宿命を負い、異文化ギャップという見えない壁をもって生まれた。ほとんどの人には理解できない障碍だ。人が違ったあり方をするのは当たり前のことだ、だが私の「違い方」は常軌を逸している。強烈な、爆発するような違和感を常に感じる。自分は本当に人間なのだろうか? この特殊の極致の感覚を書こうとすれば、詩から外れる。私は詩の根本的なあり方からズレているように思えてならない。しかし違和感が苦しいのだ。苦しいと、詩を書きたくなる。詩を書けば、普遍から外れる。詩に近づけば近づくほど、私は詩をもてあます。


 最近、自分の中の普遍に通じる部分を選んで書いている。しかし、まだそこから外れる感覚はなかなか書けない。書いても発表するのがためらわれる。詩の普遍プレッシャーが足枷となる。しかし、普遍の理解はできる。ついていかないのは感覚だ。この爆発するような違和感を、人と共有できない苦しみの詩を、どう表現すればいいのか?

 

(2017.7.3)

詩:蟻の欠落

蟻は山の巨大を知った

蟻は体の小粒を知った

 

  歌を歌えば歌うほど

  歌は足りない

  言葉を手繰れば手繰るほど

  言葉は足りない

 

捻りなく

ただありのままをかたどるだけが

蟻の仕事だった

ときには己の住処さえ

うっかり零してしまうこともあった

勢いばかりの野暮天は

堂々たる建築を前に

紅潮していた

 

我流でなければすくい取れない直截が

そこにあった

まわりくどい技巧よりも

真理を一散に彫刻する意思が

そこにあった

美の手際を見上げながら

然りとしか語れない足跡が

歩み来た隘路のまことを描く筆が

そこにあった

 

しかし蟻は

山のあまりに巨大を知った

体のあまりに小粒を知った

それでありながら

散乱した芥子の声は降り積もり

層は厚みを増していった

 

  歌を歌えば歌うほど

  歌は足りない

  言葉を手繰れば手繰るほど

  言葉は足りない

 

欠落の歌を

遅きに失して蟻は知った

 

(2017.6.30)

 

 

<ひとこと>

山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」の心境。

分け入っても分け入っても分け入っても分け入っても欠落の青い山は連なる。

詩:うめき

へたでも しろうとでも

これをかかないでは

いきていられなかった

すごみのあるほんが

みたいのです

そういうほんは

おくにおいやられて

うまい りっぱなほんが

おもてにのこっているのでは

ないのですか

せんそうをかたりつぐのは

もちろんとてもだいじです が

きょうかしょにのらない

ひとりのにんげんのうめきを

これをかかなければ

しんでしまった

かくことによって

かきてのいのちをすくった

すくえた かもしれない

そういううめきを

よみたいのです

 

(2017.6.22)