声・まっくら森

天寧煌子の詩置き場

詩日記:普遍の掌に爆発する特殊

 2000年頃から、苦しくなると詩のような言葉を吐かずにはいられなかった。自分の詩がヘタクソであることは、5、6年前からよく知っていた。2015年に作品をブログにまとめたが、それはいかにも稚拙でヒステリックな叫びだった。2016年冬、「詩」といえるようなものができたと思った。そしてようやく、2017年最近のことだ、詩を書く人間としての自覚が出てきた。今年になってようやく、詩が書けた感があったのである。


 詩の展示をする、詩集を出版する。このきっかけのために、私は急に詩の世界に目覚めていった。詩人の自覚ができてから詩集を出版するのではない、詩集の出版をするから詩に向き合わざるを得なかったのだ。そして私は、自分の作品があまりにも詩として足りなさすぎることに気がついた。つい最近のことだ。私の詩は、個人的な苦しみをヒステリックにわめいているだけで、自分から離れていなくて、作品として独立していない。どだいこれは詩ではない、詩ですと人に言えるほどのレベルではなかったのだ。詩には詩の世界がある。私の文章は、自分史として整ってはいるかもしれないけれども、詩とは微妙に似て非なる表現だったのだ。


 吉本隆明の詩に出会ったのはつい2週間前、6月中旬のことだ。八木重吉の詩に感動したのも4月だったか、ともかく最近だ。それまで私は、本気で詩に恋していなかった。詩というものを知らず、ひたすら自己流に自己流に言葉を連ねていただけだ。それは詩だったのか? それはただの日記だった、それはただの自分史だった。


 谷川俊太郎は宇宙的な普遍を書けという。私は、普遍から外れる宿命を負い、異文化ギャップという見えない壁をもって生まれた。ほとんどの人には理解できない障碍だ。人が違ったあり方をするのは当たり前のことだ、だが私の「違い方」は常軌を逸している。強烈な、爆発するような違和感を常に感じる。自分は本当に人間なのだろうか? この特殊の極致の感覚を書こうとすれば、詩から外れる。私は詩の根本的なあり方からズレているように思えてならない。しかし違和感が苦しいのだ。苦しいと、詩を書きたくなる。詩を書けば、普遍から外れる。詩に近づけば近づくほど、私は詩をもてあます。


 最近、自分の中の普遍に通じる部分を選んで書いている。しかし、まだそこから外れる感覚はなかなか書けない。書いても発表するのがためらわれる。詩の普遍プレッシャーが足枷となる。しかし、普遍の理解はできる。ついていかないのは感覚だ。この爆発するような違和感を、人と共有できない苦しみの詩を、どう表現すればいいのか?

 

(2017.7.3)