声・まっくら森

天寧煌子の詩置き場

『拒食症の家』を読んで

『拒食症の家』吉川宣行著、1998年発行、EPIC


 日本自分史センターにて、詩「うめき」と同じ内容を職員に訴えて、閉架書庫から出してもらった自分史。一読してこれは凄い、入手したいと願う大満足の本だった。
 家族との葛藤を通して、少女が拒食症になっていった過程、自分、親、きょうだいに課せられた人生の意味を探る一冊。自分に当てはめても、隣人に当てはめても、社会に当てはめても参考になる記述が満載だった。拒食症の心理もよくわかった。
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親に本当の私を見せていない。本当の私を自分でさえ認められない。拒食症はここから始まる…。拒食症の少女を通じ、日本人の教育のあり方、その問題を考える。-Amazonの商品説明より-
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 第一印象。主人公は優希という女性だが、著者は男性名を名乗っている。性別を捨てたのだろうか? と不思議に思った。また、若くして書かれた自分史だが、自己を客観的に見つめる悟性と整った文章に引き込まれた。

 

 いったん拒食症になると、元の人間に回復するのにたいてい四、五年はかかるということです。そして、私がD塾も半年で辞めたときには、体重もついに二七キロになっていました。さすがの父も声を失ったようでした。私は鏡の前で、うっとりとそのミイラのような体にみとれることが日課となっていました。
 父はそういうとき、私に確認するかのように、訊いていました。
「ほんとうに、そういう姿に、誇りをもてるのか。」
 私は笑みを浮かべて、鏡の中の私から目を離すことなく言いました。
「ここまで来るのは、大変だったんだから。」
 その時の私の横顔は、ほんとうに輝いていたそうです。(105頁から引用。以下小文字は引用文)


 受肉の拒絶を完遂する栄光に酔いしれている様子が伝わってくる。

 

 優希は、弱者に関心がなく偽善的な母、頑張って栄光を勝ち取ることしか頭にないバリバリの教師である母の愛を求めて、得られない。しかし母の血を受け継いで利己的であり、嘘を吐き、勝つことだけが目的の彼女は、若い頃からキリストの教えに親しみ、善良で、人間性を大事にする父、真実を命かけて求める父の、あまりの「正しさ」に反発する。
 母に受け入れられず、父のようにもなれない。 「父の言葉は説教でしかなく、私は窮地に追い込まれるのでした。」(135頁)
 不登校、家出、自殺未遂を繰り返し、自滅していく優希。

 少なくとも、私にとっての肉とは、非常に汚らわしいものであり、しかもその汚らわしさというのは、今まで、ほんもののと思っていたのに、そうではなく、ニセモノの肉であった、そういう肉で太るということが、たまらなく嫌だったのでした。
 つまり私は、そういった形で、自分のかつての姿も、そして両親の姿も告発していたのでした。それはひとことで言えば、私の両親は、決して妥協ができない取り合わせなので、私にしてみれば、仲良く妥協して欲しいと言いたかったのではないかと思います。
 ところが現実では、現実主義者の母の常識と、理想主義的な父の間の溝は、どんなに歩み寄っても、永遠に埋まりはしないのだと、私ものちに知ったのでした。
(中略)娘の私は、そうしたふたつの性質がひとつの体の中で、相争うわけです。これこそ宿命ではなくて何であろうと考えたことがあります。(133頁)
 
 父はやがて、羞恥心や後悔がなく、痩せることだけを快楽にしている優希の中に悪霊を見出すようになる。 「ただ直感が鋭いというだけなら、よくあることだが、とても普通の人には真似のできない鋭さが優希にはある。ということは悪霊が付いているのではないか……。」(172頁)

 真実を追求する性分がある私(天寧)にも、優希の父語録は金言として重宝できる。しかし、そうした非の打ち所がないとも思われる父の「立派さ」は、優希には脅威でしかない。父は悪霊の存在を見破っても、自我分裂に震えている優希を救うことはできない。
 父は病に倒れ、優希を正しさで教化しすぎたのではないかと悔いる。そして、優希に最後の言葉を残して死んでいく。
 「ひとの歩むべき道というものを、真理というなら、そういう真理は学校でも家庭でも十分に教えている。しつけとは、そういう真理の道を歩けるように、あらかじめ教えておくものであるとするなら、しつけがなされたあとに、穴の開いた服ができたということは、もはや、しつけをした「人」か、あるいは、そのしつけの「糸」が問題だ。
 優希をしつけたのは、陸上部の顧問であり、わたしだ。どちらも、もちろん「しつけ糸」を使ったわけだが、その「糸」が布地そのものを、食いちぎったりして、服をぎこちなくしてしまった。「しつけ」は、あくまでもこれから縫い上げるところの仮縫いだから、その縫い方は大らかで、「しつけ糸」もあとで取り易いものであるはずなのに、私たちの場合は、「しつけ糸」そのものが、幅をきかせてしまったようだ。」(206頁)

 

 著者の語りに凄みを感じるのは、父から悪霊の存在を指摘された人間みずからが、業の深さを語っていることである。人を蹴落としてでも勝ち抜く栄光を快楽にして偽善的に生きる母の性質を強く受け継ぐ娘でありながら、母とは正反対の世界を生きる父につまづいて、拒食症になるほど行き場を失う。

 ヘビからはヘビが生まれ、そしてそのヘビは、まだ死ぬこともなくこの世にいる。それと同じく、私もまた、死んでも死にきれない先祖から生まれ、当然、私もそういう命でしかない。そして、もし、生まれながらに誇りがあるとすれば、その誇りもまた、まだ死にきれない命を守るための誇りであり、そういう誇りがこの世に満ちれば、もはや、誇りと誇りがぶつかり合う闘争しかないのではないか。(224頁)

 ただ、今はっきり言えるのは、私には当時、心のふるさとがなかったということです。いえ、かつてはあったのですが、二つに分裂した私をまるごと包み込んでくれる、暖かいふるさとがなかったのでした。父も母も、それなりに自分の道を進んでいますが、父のふるさとも母のふるさとも、私のものではありません。(中略)父を求め、母を求め、しかし、どちらも自分のふるさとではないとなれば、どうなるか。あとは自滅を望むか、人のふるさとをぶち壊すかの、どちらかではありませんか。(212頁)

 

 第三者の目から見ても、父よりもがぜん母に近しい魂を持っている優希であるから、そのまま母の生きる世界に行ってしまってもよさそうなのに、彼女は壊れていくばかりである。キリストの意思を受け継ぐ存在である父が、彼女を脅かすのである。
 人間の業、善と悪との死闘をみる。悪霊の目で善に向き合うとは、どれほど苦しい業だろうか? もし生まれながらにして、自分に逃れられない業があるならば、それに立ち向かうことは、なんと過酷な宿命だろうか。
 著者は、のちに伝道者になったそうである。

(2017.7.31読了)