地底の声

世の中からズレてる人の書いたもの(詩・エッセイ・日記など)

〈特殊〉と〈一般〉のはざまで ―文芸社の講評に寄せて―(3)

〈自分の部屋〉を〈通路〉の一部にしたくない

 

 『マイノリティ・センス』がおおかたできあがった時、下読みした人の評価はさんざんだった。重い。暗い。わかりにくいと。読んでもらえない人が半数いた。そもそも「読めない」というのだ。

 

 本の内容自体に関しては、それなりの自負はあった。なにせ、聴覚過敏に関して、世の中にはない秘密を、自分で解き明かした。世の中にないメソッドを、自分で築いた。世の中にない思想を、自分で編み上げた。世の中にない治療法を、自分で確立した。

 しかし、とにかく〈一般〉向きではないことを、私は思い知った。

 

 本の重要人物として登場する、一緒に推敲してくれた人(仮にミカンさんとする)がいた。ミカンさんは、私が〈特殊〉の世界でとどまり、くすぶっているのを、〈一般〉に開放しようとした。

 

「あなたのまわりにいるのはマジョリティ(多数派)でしょう? わかってもらわなきゃならないでしょう? だからマジョリティに向けて、広く! わかりやすく! やさしく!」

 

 というのだった。文芸社への投稿を勧めたのも、ミカンさんだった。

 

 人に通じるわかりやすい表現を目指すことには、賛成だった。しかし2つの点で、私は抵抗した。

 

 一つは、私の〈特殊〉な感性を〈一般〉に合わせすぎると、その繊細さや、複雑さや、独自性が壊されることだった。あたかも〈自分の部屋〉が〈通路〉の一部にされてしまうように。

 〈一般〉化されて自分の表現ではなくなることは、苦痛だった。〈自分の部屋〉を守りたかった。

 

 

私の部屋を通路にしないで

 

 

 もう一つは、対象読者をマジョリティにするのは無理がある、という思いだった。

 二人の言葉が私を導いていた。

 本に登場する、ひきこもり支援にかかわっているアンゴウさんは、「マジョリティにわかってもらわなくてもいい」と言った。

 哲学者の中島義道も、「彼らを打ちのめすことはできない。彼らの考えを変えようなどというフトドキ千万なことを試みてはならない」と『カイン』で語っていた。