地底の声

世の中からズレてる人の書いたもの(詩・エッセイ・日記など)

〈特殊〉と〈一般〉のはざまで ―文芸社の講評に寄せて―(6)

私に大通りは似合わない

 

 ところが今度は、「マジョリティに向けて広く、わかりやすく!」という理想を目指すミカンさんと、決裂していくことになる。

 

 ミカンさんには、発達障害の家族がいる。その人のことが「わからない」という。だからこそ、同じ事情を抱えている私の〈特殊〉事情を、〈一般〉に「わからせる」ことに、こだわるのだ。

 

 ミカンさんが「わからない」のは、〈特殊〉事情のある人の問題ばかりではなく、彼女の問題であると、私は思った。ミカンさんのアイデンティティは、〈特殊〉な感覚を失い、〈一般〉の感覚に同化しているように思われた。そんな自分の心を、自分で見ることができないと。

 そのような人が、〈特殊〉な人を理解するのは、極めて難しいものだ。ミカンさんは自分の「わからなさ」を、相手に転嫁しているように思われた。

 

 〈特殊〉と〈一般〉が通じ合わない。

 

 そんな時、〈特殊〉が〈一般〉化するばかりでなく、〈一般〉が〈特殊〉化することも、また必要なのだ。それなのに、「〈一般〉が当たり前。お前が〈一般〉化せよ」と一方的に圧力をかけられるのは、苦痛だった。

 

 文芸社は、〈一般〉寄りの出版社という印象があった。〈特殊〉へのまなざしがあるとは、この時は思われなかった。ミカンさんが「文芸社文芸社」と促すたびに、「お前が一方的に〈一般〉化せよ」という執念と圧力を感じ、嫌だった。

 

 私はもう、ミカンさんの口から、文芸社という言葉を聞きたくなかった。終わらせようと思った。だから自分史大賞に応募した。落選通知が来た時、落胆したが、心のどこかでホッとしていた。

 

 私に大通りは似合わない。細い、細い道を行くのだ。誰も通らない道を。

 

 こうして私は、ミカンさんと別れた。

 

 ミカンさんのおかげで、文芸社からの講評をいただけたのかもしれない。感謝している。しかし彼女に、私にダメージを与えた自覚がないこと、大事な友人を失ったことは、残念だった。