〈特殊〉と〈一般〉のはざまで ―文芸社の講評に寄せて―(7)
まなざしとまなざしの交錯
精神保健関係の施設で話を聞いてもらっている人がいた。もはや味方は、その人しかいなかった。
精神科のシンラツ先生は、こう教えてくれた。ふんぞり返って、声のシャワーを浴びせかけるように、奔放にしゃべるが、すこしも傲慢を感じさせない口調で。
「こういう状況を理解できる人は限られている。受け取るには勇気と力が要る。もっている人はごく一部。みんな嫌がる。重い? 暗い? そりゃそうだよ。ただ一般の人でも、心開かれる人はいる」
「私、誰も読まないかと……」
「一般の人は反応がないのが当たり前。理解できるわけない。できるもんならしてみろ! 詩集で一部でもわかってくれた人がいた、って思ったんでしょ? それぐらいの割合。多くの人にわかってもらうのではなく、わかる人が一部いればいい」
冒頭に戻る。だから私は、文芸社のレターに、心底驚いたのである。
出版社という、〈一般〉社会を代表する人が、〈特殊〉な人間を、作品を認めてくれたことに。〈特殊〉が〈一般〉化することばかり求められる中、〈一般〉の代表者が、〈特殊〉の領域に足を踏み入れようとしてくれたことに。
筋金入りの〈特殊〉が、ただ自分だけの力で、〈一般〉など目指せない。
それができる内容だと判断したのは、あくまで〈一般〉側に、〈特殊〉を見る目があったからだ。私の〈一般〉に向かうまなざしと、〈一般〉の〈特殊〉に向かうまなざしが交錯しなければ、流通など、交流などできようはずはない。
こうした人は、シンラツ先生のいう通り、ごく限られている。ある意味〈特殊〉な人かもしれない。
〈特殊〉に歩み寄ることのできた、文芸社出版企画部Sさんの知性、力、そして(シンラツ先生いわく)勇気に、心から感謝している。