地底の声

世の中からズレてる人の書いたもの(詩・エッセイ・日記など)

ためらいながら、書いている…。

 私は、「〈自己愛〉と〈他者愛〉のはざまで」を、ためらいながら、書いている。

 

 「渦中」で言語化するのは、難しい。

 私は、自己表現は得意な方だが、肝心なことは、相当の時間を経なければ、言葉になって出てこない。

 

 そして、強烈な罪悪感がある。

 私が父を非難すれば、「親」一般、「男性」一般を排撃することにもなりかねない。そう受け取られているかもしれない。

 母親に傷つけられた人、女性に傷つけられた人、子どもに傷つけられた人、障碍者に傷つけられた人もいるだろう。立場が違えば、この記事は、読者のトラウマを刺激するかもしれない。

 とりわけ、ASDという超絶「むつかしい」人を抱え、家事の負担が集中する母親の心を傷つけているとしたら、ほんとうに申し訳ないと思う。理解しようと歩み寄る親、自分の言動を反省できる良心のある親、想像力を駆使して相手のことを思いやることのできる親も、いる。

 すべての「親」「男性」を排撃しているわけではなく、あくまでも、私の父を俎上に載せているつもりである。

 

 読者に打撃を与えたくない気持ちは山々だが、ほんとうのことを言いたいこだわりや、独特な詩的言語の駆使のために、私の舌鋒が鋭く、言語や論理が飛躍して、あくの強い表現になってしまうことを、お詫びしたい。

 真実を書きたい気持ちと罪悪感の板挟みになっている。

 

 

 

 

 ためらいながらも、記事を上げようと、試みているのは……。

 

 まず、前回、あまりにも陰惨でカタストロフィな記事を書いてしまったので、もし一人でも心配してくれている人がいるとしたら、無事を報告したかった。

 だから、できるだけ、この体験から学んだことも書きたいと思った。

 

 次に、単純に、つらい思いを吐き出してみたかった。

 

 次に、「渦中」で書いた詩がたまっているので、発表したかった。

 

 次に、真実を記したかった。

 私の問題が、“社会的に”どう位置付けられるのか。

 ASDの特性のために、社会に適応できず、「家」に避難せざるを得なかった、「予後」の悪い人間が、どういう経験をするのか。

 

 「家」は、社会で解消しきれない矛盾が露呈し、そのエネルギーが凝縮する場だと思う。

 私の場合、ASDのハードルは、身体の内側にも、外側つまり社会にもある。どちらかといえば、社会の方が圧倒的に大きいと感じる。

 その矛盾が、近代的な「家」における「抑圧委譲(権力者のもたらす抑圧が弱者へ発散されるしくみ)」のしくみの中で、どういう形で露出するのか。

 時々、殺人や虐待など凄惨な事件が発生するが、身近な問題の相似形だと捉えている。

 そのことも、自分の体験を通して、描き出してみたかった。

 また、当時、「愛」について自分なりに考えたことがあるので、整理してみたかった。

 

 けれども、正直、「ものを言う」しんどさを感じている。時勢的にも厳しくなってきている。

 「後ろめたさ」を感じている。私も不甲斐ないのだから。「家」は「後ろめたい」場だ。

 「こんなことを言って何になるのか」と無力感を覚えている。

 心底、馬鹿馬鹿しくなったら、書くのを中断すると思う。