小説:袋
男の顔に袋が被(かぶ)さっている。首まですっぽり嵌(は)まっている。袋の口は中途半端に開放され、風に揺れてビラビラしている。
ビニール袋のようだが、もっと透明で、景色がよく見える。音もクリアに聞こえる。このままテレビや映画や音楽を楽しむこともできる。もちろん人と話すことも。
飲み食いする時は袋の隙間からスプーン、箸を差し込む。手で直接口に運ぶこともある。
何不自由ない。
今日は花粉が多いようだ。くしゃみをすると袋の内側に点々と唾がつく。汚いが、これくらいは仕方ない。袋の隙間からニュッと手を入れ、ティッシュで鼻をかんでしまう。
しかし、少し息が苦しい。吐き出した二酸化炭素が袋の中に滞留している。酸素が入らないこともないが、十分ではない。それに、息を吐き出すたび袋が膨らみ、吸うと縮んで、心もち顔にピッタリくっつく。慣れたものだが、一度気になるとその感触は心から離れなくなる。
呼吸できないわけではない。何かに気を取られると息のことなど忘れる。しかしうっかり息、と考え出すとだめである。
この袋、取ってしまおうか。やってみたいと思いながら、このままでも息はできるから問題ないと、長年放置していた。これで不自由なく暮らせるのだ。たかが袋ではないか。放っておけばいい。
それにしても、外の空気はどんな感じなのだろう? 肌触りとか、温かさとか、冷たさとか、湿気とか、気圧とか、……。一度思いきり吸い込んで、肺の中に送り込んでみたい。こう袋が四六時中しゅうしゅう顔にひっついていては、顔と同化して、袋男になってしまいそうだ。
彼は頭のてっぺんから袋の端を掴み、エイッと勢いよく引き上げた。鼻や耳など出っ張った顔のパーツに、合成繊維のような薄い素材がスリスリッと滑る。
とうとう袋の下端は額を過ぎ、頭頂部を過ぎる。抜けた。顔から外れたのである。
空気だ!
目の前にあるそれは見えず、臭いはない。物質の感触もない。
花びらの匂いを嗅ぐように思いきり鼻から吸い上げる。それは鼻の穴に入らず四散して、たちまち彼の首を取り囲んだ。締め上げる。
しまった! 袋だ。袋があれば……。
袋を投げ捨てた床へ彼は慌てて手を伸ばした。掴む間もなく意識は薄れ、昏倒した。
(2021.1)