地底の声

世の中からズレてる人の書いたもの(詩・エッセイ・日記など)

ためらいながら、書いている…。

 私は、「〈自己愛〉と〈他者愛〉のはざまで」を、ためらいながら、書いている。

 

 「渦中」で言語化するのは、難しい。

 私は、自己表現は得意な方だが、肝心なことは、相当の時間を経なければ、言葉になって出てこない。

 

 そして、強烈な罪悪感がある。

 私が父を非難すれば、「親」一般、「男性」一般を排撃することにもなりかねない。そう受け取られているかもしれない。

 母親に傷つけられた人、女性に傷つけられた人、子どもに傷つけられた人、障碍者に傷つけられた人もいるだろう。立場が違えば、この記事は、読者のトラウマを刺激するかもしれない。

 とりわけ、ASDという超絶「むつかしい」人を抱え、家事の負担が集中する母親の心を傷つけているとしたら、ほんとうに申し訳ないと思う。理解しようと歩み寄る親、自分の言動を反省できる良心のある親、想像力を駆使して相手のことを思いやることのできる親も、いる。

 すべての「親」「男性」を排撃しているわけではなく、あくまでも、私の父を俎上に載せているつもりである。

 

 読者に打撃を与えたくない気持ちは山々だが、ほんとうのことを言いたいこだわりや、独特な詩的言語の駆使のために、私の舌鋒が鋭く、言語や論理が飛躍して、あくの強い表現になってしまうことを、お詫びしたい。

 真実を書きたい気持ちと罪悪感の板挟みになっている。

 

 

 

 

 ためらいながらも、記事を上げようと、試みているのは……。

 

 まず、前回、あまりにも陰惨でカタストロフィな記事を書いてしまったので、もし一人でも心配してくれている人がいるとしたら、無事を報告したかった。

 だから、できるだけ、この体験から学んだことも書きたいと思った。

 

 次に、単純に、つらい思いを吐き出してみたかった。

 

 次に、「渦中」で書いた詩がたまっているので、発表したかった。

 

 次に、真実を記したかった。

 私の問題が、“社会的に”どう位置付けられるのか。

 ASDの特性のために、社会に適応できず、「家」に避難せざるを得なかった、「予後」の悪い人間が、どういう経験をするのか。

 

 「家」は、社会で解消しきれない矛盾が露呈し、そのエネルギーが凝縮する場だと思う。

 私の場合、ASDのハードルは、身体の内側にも、外側つまり社会にもある。どちらかといえば、社会の方が圧倒的に大きいと感じる。

 その矛盾が、近代的な「家」における「抑圧委譲(権力者のもたらす抑圧が弱者へ発散されるしくみ)」のしくみの中で、どういう形で露出するのか。

 時々、殺人や虐待など凄惨な事件が発生するが、身近な問題の相似形だと捉えている。

 そのことも、自分の体験を通して、描き出してみたかった。

 また、当時、「愛」について自分なりに考えたことがあるので、整理してみたかった。

 

 けれども、正直、「ものを言う」しんどさを感じている。時勢的にも厳しくなってきている。

 「後ろめたさ」を感じている。私も不甲斐ないのだから。「家」は「後ろめたい」場だ。

 「こんなことを言って何になるのか」と無力感を覚えている。

 心底、馬鹿馬鹿しくなったら、書くのを中断すると思う。

詩:なんやねん

なんやねん

 

だれやねん

 

そういうわれは

 

なんやねん

 

わいのこと

 

なんやおもてんねん

 

わいのこと

 

なにしっとんねん

 

いっこ?じっこ?ひゃっこ?

 

もっとあるわい

 

わってもわってもわっても

 

わいおるさかい

 

おもいきや

 

おらんかもしれへんさかい

 

じしんなくなってきたわい

 

なにわろてんねん

 

そもそもわれは

 

なんやおもてんねん

 

なまえなんやねん

 

そもそもわいは

 

なんやってん

 

なまえなんやってん

 

だれやねんほんま

 

なんやねんほんま

 

だからほんまなんやねん

 

ほんならわい

 

そろそろいくわ

 

おいおいそっちはぬまやで

 

ええねん

 

わいのはたけは

 

わってもわってもわっても

 

そこなしぬまの

 

なんやねん

 

(2022.3.12 蒼炎浪漫vol21掲載)

 

 

■ひとこと

汝、なんやねん也。なんやねんを50書け。100書け。との激励に、関西弁にて、しるす。

〈自己愛〉と〈他者愛〉のはざまで(6) 詩:〈敵〉と〈味方〉

 E氏と対決した。

 偉そうなことをまくしたててしまったかもしれないが、懸命に意思表示した。

 E氏の立場として、そういうふうにしか生きられなかった、と判明した。

 和解した。誇りを感じた。

 こうして私は、クリニックを辞めた。

 

 

〈敵〉と〈味方〉

 

ありのままのじぶんであることを許さない

〈敵〉の砲弾に追われ

匿われた〈味方〉のアジトで

わたしたちは出会った

〈味方〉の毛布に包みこまれたとき

〈敵〉のにおいがした

 

〈敵〉か〈味方〉か

〈外〉か〈内〉か

〈彼方〉か〈此方〉か

――ばかばかしい

わかっていた

わたしたちが対立する勢力であることは

わたしたちが存在の基底に根をおろし

魂の向かう地平へこころざすほど

欲望をみずからの良心にしたがい

とおくに飛翔させるほど

逆さまの夢がひろがることは

 

目のまえで毛布に包みこむ手は

わたしを垣根の外に追いやった

魂の群れ

わたしの心とからだを蝕んだ

視えない因縁

ならば良し

あなたと対立するために選び選ばれた

あなたの懐にわたしの懐を映し

わたしの懐にあなたの懐を映すために

抱擁する手で拒絶し

拒絶する手で抱擁するために

北極と南極ふたつの頂が

撞着のかなたを突破し

かたみに出会うために

わたしたちは同志になった

 

気づけばあなたが仲間の魂を率いて

わたしを包囲していた

〈敵〉の砲弾がふたたび聞こえてきた

あなたはやはりわたしを毛布で包みながら

〈味方〉に引き入れようと甘くささやいた

ついに訣別の予感がはじけ

わたしは毛布を払いのけ重々しく告げた

〈敵〉にも〈味方〉にもならない

このアジトを出てゆく

向かい合ったわたしたちの

視線は空中でするどく衝突し

的に刺さった そして

その瞳に映ったじぶんの姿をみとめた……

微笑んだわたしは砲弾の嵐へ

飛び出していった

 

(2022.4.15 蒼炎浪漫vol.23掲載)

 

 

詩:生の杣道

〈争いによって

 生 を望む者もいれば

 死 を望む者がいてもおかしくない

 この杣道は 通った人にしか

 わからない〉

 

岡本太郎の遺伝子

命かけてうたう

artの革命家よ

宇宙に迸る

あなたの息吹が

わたしを覚醒させた

 

けれども誘爆する魂よ、

もし パンドラの箱を開いたとき

終わりが待っていたら?

開かれるように閉じられれば?

どうすればいいのか?

それでわたしは

この杣道に入れないのだ

番人が告げる

ここからは立ち入り禁止だ、と

 

わたしの炸裂が

あなたの呼吸に合わなければ

きっとあなたを失望させるだろう

 

〈ある詩人はいった

 すべての中絶には意味がある(※)、と〉

番人を押しのけ

禁令を破って進めば

どこに辿り着くだろうか?

うすうす勘づいてはいるが

具現を阻む

何者かの(わたしの?)意志が

重くのしかかってくる

この中絶の番人に

わたしは問いかける

古い童謡のように

〈こうこはどうこの細道じゃ?〉

 

開ききる、とは?

死の開く生、とは?

生の開く死、とは?

 

開くなら

あなたの細胞

あなたの呼吸

あなたの門

の震える

同心がいいに違いない

わたしの殻は

門を通るには厚い

このパンドラの箱

いたずらに断層を生むよりも

あなたに息吹を届けるほうが

よいのではないだろうか?

 

〈I'm me.〉

中絶に語り続けている

〈I'm me.〉

中絶に炸裂している

 

でも、今は――

異境を歩むエトランゼとして

未知の生命に

この瞬間

弾ける息吹を合わせる

鳴かない猫が

睫毛を揺らして微笑み

呼応する

印字されない重唱のように

 

(2022.3.20 蒼炎浪漫vol.24掲載)

吉本隆明 定本詩集Ⅴ 「時のなかの死」

 

 

〈自己愛〉と〈他者愛〉のはざまで(5) ゾンビの影たちとの闘い

 A氏に相談した。詳しくは書かないが、暴力について「あること」を言われ、胸が張り裂けるような思いをした。

 衝突した。その人は、浅薄な解釈で、「あること」を言ったにすぎなかった、と判明した。和解した。

 A氏にも、E氏にも、悪気はまったくなかった。

 

 私は繊細に、複雑に、深遠に感じ、考えてしまう。一方、A氏らには、明晰な意図がない、意識がない、自覚がない、らしい……。

 このことが、私と世の中がズレ、自分が病んでいく原因だと思った。

 

 夢の中で、彼ら――「無意識の殴打」をするゾンビたちの影が、がやがやと迫ってきた。音に襲われ、叫んで起きることが増えた。

 意識は過覚醒し、休めなかった(この時、詩「ゾンビ」を書いた)。

 

 

 鬱は深かった。回復しようと必死になり、様々な手当を施した。

 

 まず、「現在の鬱地図」を書いた。Wordにつけている日記に、鬱に陥っている原因を列挙した。

 

 次に、「ストレスリスト」(小林弘幸の本に書いてあったやり方)を書いた。ストレスになっている事柄を箇条書きにして、程度を4段階(小、中、大、甚大)に分けた。

 状況を俯瞰できるようになってきた。

 解決策も考えた。机の前のCDコンポに貼った。

 

 

 次に、理想の生活に近づけるように意識した。現実のタイムスケジュールの横に、理想のタイムスケジュールを並べた表を、Excelで作成した。

 

 次に、本を読んだ。信田さよ子著『家族と国家は共謀する』と上野千鶴子著『女ぎらい』という名著に出会い、心が明るくなってきた。

 

 次に、WEB上のメモアプリ「Evernote」に、鬱対処に効果があったことと、その程度を記録した。

 

鬱対処

 

 次に、信頼できる、ある相談員に相談した。

 

 治療の場で、E氏の背後にある「無意識の殴打」と闘い続けることは、できない。転院を決意した。

 

 こうして私は、徐々に、気力を取り戻していった。

 「Evernote」の記録によれば、読書の効果が最も高かったようだが、信頼できる人に相談したことが、一番癒しになっていたと記憶している。

詩:異化の結実

異化には理由がある

ひとりひとりに理由がある――

 

何年前だったか、の

遠い昔

あれは違う、これは違うと、

会う人会う人に

アナフィラキシーショック

の電流を受けて

竦み上がっていた

違和感の看守が

わたしを牢獄に

連れ戻し

もう一歩も出られなくなった

会う人会う人に

衝突したものだった

 (じつは今でも

 そうなのだが――)

 

「同じ」を叫ぶ人々のなかで

わたしは「違う」の核心を

思春期の頃から知っていた

生涯かけて これを解明すると

決意するまでに

「同じ」に馴染みきった人は知らない

「違う」がどれほど迫害され

剥奪されるかを

生を血で染め上げられるかを

病気、障害、不名誉なスティグマ

わたしの戦争は

すべて「違う」からきていた

 

そんな「違う」を

犬の嗅覚以上の鋭さで

探知機以上の正確さで

発見するはたらきを

「異化能力」と名付け

収穫しようとしている

時は2022年

コロナはしぶとく猛威を振るい

プーチンが戦端を開いて

厄介で憂鬱な

とにもかくにも 時代の節目

 

「異化能力」の発現によって

わたしとすれ違った ある人は

鷹揚にも

「異化」を「異化」のままに

開花させようと

頭の風車を回して

「同化」と「異化」の並立する

瞬間の心の揺蕩いの

結晶する音を

星座の布置に透視し

磁力の集合を

多重のまま捉えた

収穫された創傷の墓標に

弔鐘を撞くように

 

今、結実するとしたら

時間を超えた

差異――意味の生産?

「異化」と「同化」の

パラレルワールド

交差することのない ふたつの音は

布置を保ったまま

時の裂け目に 合流する

 

(2022.3.21)

 

 

違和感

 

違和感



〈自己愛〉と〈他者愛〉のはざまで(4) 『女ぎらい』の印象的な記述「権力のエロス化」と感想

【注意】

私が家の問題を書くと、刺激の強い記事になってしまい、申しわけありません。

気が弱っている時は、あまり読まないよう、注意してください。

 

 1年前、攻撃を快楽にしているサディスティックな父、そしてE氏の「それはあなたのため」という言葉のおかしさを分析するために、上野千鶴子著『女ぎらい』を読んだ。

 以下は、もっとも印象的だった箇所の復習メモである。

 

「権力のエロス化」の章の記述

 近代は、「神」に代わって「自然」を代入した。そして性を「自然化」したという。

 近代婚姻法以降、夫婦関係の性はエロス化された。夫婦間に性行為の義務が発生したと推定されるからだ。夫婦関係の性関係が特権化されただけでなく、その性がeroticizeされたという。「夫婦関係のエロス化」と上野氏は名付けている。

 

 公的世界から放逐され、「私領域=家族」とへと囲い込まれた性は、特権化されて、人格と結びついた。「性の私秘化」という。以来、プライバシーに関することといえば、そのまま性的であることの代名詞になったという。

 私領域(プライバシー:語源は「剥奪された」)は、公権力の届かないブラックボックス、無法地帯となった。こうして、家父長の専属支配のもとに、妻や子どもが従属する「家族の闇」が成立したという。

 プライバシーとは、強者にとっては、公権力による掣肘のない自由な支配を、弱者にとっては、第三者の介入や保護のない恐怖と服従の場になったという。

 

 「夫婦関係のエロス化」のもとで、夫は妻に快楽を教える。妻には快楽の権利と義務があるという。性を統制する権力が、快楽をつうじて作動すること=官能の調教=「権力のエロス化」という図式が理解を助ける。

 神の死んだ近代では、性の自然が原罪となるという。快楽と罰。家父長が神の代行者となって鞭を振るう。家父長に仕える家族は、愛を感じなければならない……(なんとなくわかるようでわかりづらい)。

 性愛は男女間の性的な愛情。性と愛は分離しているはずなのに、一緒くたにされているので、理解が難しい。

 

権力のエロス化

 支配とは、自分の勢力下のものを意のままに操ること。自分色に染め、自分のモノにする(所有する)こと。

 暴力とは、他者の身体(精神)への過剰で強制的なコミットメント。

 

 「支配が性愛のかたちをとる」とは?

 干渉、侵攻、植民地化(自分のモノ化)という一方的なコミットメントを、「おまえにとってもキモチイイはずだ」と思い込みたいということか。

 支配を愛と言い換えるE氏は、近代的な「権力のエロス化」を背景にした価値観を持っているのかもしれない。「家父長の専属支配のもとに妻や子どもが従属する家族」のもとでは、権力(暴力)はエロス(愛)として、エロス(愛)は権力(暴力)として表現されるから、それに快楽を感じていればいい、ということだろうか。

 

 E氏のいう「愛」とは何か?

 アガペー(神の愛)でもフィリア(友愛)でもなさそうだ。エロス? 性愛? 執着? 親密さ? 関心ならぬ身体的関わり=「関体」?

 快楽的な意味は、きっとある。「過剰なコミットメント」という意味もあるだろう。身体の過剰なコミットメントである「関体」。上野氏の文脈では、エロスが一番近そうだ。

 

 家父長が、家族を自分のモノにするべく、一方的に、エロス的に、身体的にコミットメント(関体)をすること。

 マイルドな言葉では、「過干渉」。

 ハードな言葉では、「虐待」「強姦」「植民地化」。

 山本七平の言葉では、ヒヨコにお湯を飲ます「感情移入の絶対化」「乗り移らせ」。

 この一体化を、「おまえにとってもキモチイイはずだ」と思い込みたい、願望。

 父の正義の代行者である「エレクトラ(性的抑圧を受忍した女性)」。こんなトンデモナイ「関体」を、「あなたのために」とか「よかれと思って」とか「愛」とかいうE氏が、私には信じられなかったが、「権力のエロス化」を内面化している、「エレクトラ」の発想だと感じた。

 

『女ぎらい』感想

 読んでいて胸がむかつくほどキツイ箇所、面白すぎて快哉を叫ぶ箇所があった。

 家族、知人など周囲の人々がことごとくミソジニー(女性蔑視)であり、自分も無縁ではないことを知った。

 モテ=持て=(物質としての女性を)所有することで、ホモソーシャルな絆を確認し、アイデンティティを守る。男性が女性を「守る」とは、命を「守る」という以上に、家内財産を所有し、統制する意味が濃厚であることを認識した。

 ドラマで恋愛のシーンが展開されても、この言葉が発せられるや否や、もはや「権力のエロス化」としか受け取れない。

 

 この本の知見は、社会問題の多くに応用できる。世界がひっくりかえった。無知だった。

 私秘性の反対、公開性を。

 女性を「家内」として囲い込まず、ひとりの人間として包摂される社会が実現すれば、と思った。

 女性を性の道具ではなく、ひとりの人間として尊重する、想像力と共感性のある男性の言葉(本やYouTube動画)に、私は癒されている。彼の良心が救いである。

詩:沼

贔屓が

グループに入っていたから

みんなが好きになった けれども

ひとりが異様にまばゆく

みんなも 贔屓すらも

背景になり

搔き消された

そのひとりだけが

目に 耳に 浮き出るように

飛び込んでくる

 

どうやら墜ちてしまったらしい

意図するでもなく

手足は沼に絡めとられている

〝熱狂的ファン〟という汚名が

耳に痛い

そんなつもりはなかった のに

果てしなく底無しで……

 

彼の言葉を読んだ

彼は否定しているけれども

ある文士に似ていると囁かれていた

昔、その文士を近親のように慕っていたわたしの

足元はぐらついた

〈この人は、ヤバイ〉

気づけば根っこを探る

指は止まらなかった

それがはじまりだったと思う

 

彼の歌を聴いた

精霊のように儚く

消え入りそうなのに

中原中也の詩が演奏されたような

切り立つ音色で

竜巻の狂気を帯び

突き刺してくる

 

彼の語りを聞いた

日の当たる山頂で

ペンライトを浴び

ふんぞり返っている

偶像たちとはちがって

落ち窪んだ

隕石孔の片隅で

細々と漏れる呟きは

強烈な磁場となって

旋風を巻き起こし

ブラックホールのような

危険な吸引力を放っている

造作のない姿はそのまま

肚の地底を震わす

絶笑の炸裂となる

 

クレバスが

喚んでいる

ただ在るだけの

絶対的佇立

眩しい暗黒!

 

黄昏の眩暈が

わたしを襲った

 

(2022.3.11)

〈自己愛〉と〈他者愛〉のはざまで(3)世間の「愛」の認識

加害がなぜ「愛」とみなされるのか? という素朴な疑問

 他人の生理的な、自然な反応を、攻撃して抑えつける。他人の思考や行動を強引に決めつける。やってもいないことを「やった」とか、やったことを「やっていない」とか。冤罪をつくる検察官まがいに、恫喝して、罪の自白を強要しようとする。ヤクザまがいに脅迫する。

 無理やり押し倒す。引きずり回す。体内(口)に侵入する。痣をつける。逃げ道を絶ち、望まぬコミュニケーションを強制する。何時間も拘束する。弱点のある体の部位(耳元)を狙って、「おまえなんで生きてるんや!」と怒鳴る。

 私が事実を指摘すると、否認する。「自分の対処は正しい」と正当化する。あげくの果てに、病気にする。

 

 こんな行為の、どこが「愛」か。「心配」か。理解に苦しむ。

 私ははじめ、取るに足りない偽善だと思っていた。が、E氏は、つまり世間は、大まじめに、そう考えているらしい。

 

 それから、「愛」という言葉に抵抗を覚えるようになった。敵の神を撃つなら、「愛」に照準を定め、解体する必要がある。

 今、私は、ようやくにして、背後にある家父長制を発見した。なんと無知だったことだろう。

 

ひきこもり問題のミッシングリンク

 余談。

 とあるひきこもりの親は言う。子どもも親も事例が幅広すぎる。共通課題がないと。私は、自分の体験を通して、家庭問題がミッシングリンクになりうるかもしれない、と考えるようになった(確証はまだない。直感でしかない)。

 

 市場や社会の問題が、家庭というブラックボックス、私的領域にしわ寄せされる。親は、市場で強くあらねば、子どもを市場に送り出さねば(戻さねば)というプレッシャーに悩む。「現役強迫」だ。子どもは、親や学校や会社から「現役強迫」を受け取る。結果、ひきこもりの問題が深刻化することもある。

 

 テレビや広告で流布されている家族神話がある。夫婦や親子は愛情の絆で結ばれているという。この神話に覆い隠されて、ブラックボックスは見えづらい。とくに「現役人(現役で働いている人)」の関心は、市場にあるので、ブラックボックスをいっそう認識しづらいかもしれない。一方、「退役人」として心眼の発達しているひきこもりの人には、見えていることが多いかもしれない。

 

 現役としての市場。退役としての家庭領域。そして病気や障害。すべての関連を、ひきこもりのブラックボックスを通して捉えることができれば、私の体験も、無駄にはならない。

 家父長制についての知を深めれば、「愛」のヴェールの糸目が見えてくるかもしれない。立ち直りたいと、強く願う。

 

睡眠日記

睡眠日記


睡眠日記

 うまく眠れなくなって5カ月が経つ。2月から毎日、Wordで睡眠日記をつけている。睡眠に成功した日は数行で済むが、格闘した日は数十行にもなる。

 画像(下)は3月某日のもの。就寝・起床時刻、横になっていた時間、眠れた時間、眠りの深度、睡眠と格闘している間の思考、イメージ、夢、行動などを細かく記録する。失敗や成功を検証し、よりよい睡眠に近づけるべく試行する。

 睡眠は健康の要。とはいえ、膨大な労力と時間をかけている。正直、やりすぎていると思う。自分の身体をコントロールすることで、コントロールされることに対抗する、拒食症のような心理が働いているのかもしれない。

 書いて書いて書きまくると、意識・無意識の氾濫を消化できる。徐々に安定し、先月、ようやく熟睡できる日が増えてきた。うまく眠れると、精神的、肉体的な満足感がある。ふつうに眠れることが、これほどありがたいとは。

 最近、蒸し暑くなってきた。扉を開けざるを得ない日は近い。音への不安が増し、睡眠はまた不安定になっている。(1)睡眠日記、(2)防音対策、(3)医者探し、(4)服薬、(5)慣れ(一つひとつ音を記憶する)を試行している。

〈自己愛〉と〈他者愛〉のはざまで(2) 詩:ゾンビ

 私は国際情勢に詳しくないので、ウクライナ侵攻に関して、マクロな面で意見する知識は十分に持っていない。が、関係の記事を読む限りは、私の体験した問題に通じる部分はあると感じている。

 ロシアの精神的な大地。アイデンティティ。つまり〈わたし〉のアイデンティティに自信を喪った者が、過去の栄光である〈わたし〉を取り戻すために、隣人を〈わたしのもの〉にしようとする精神を、ミクロなレベルでは感じる(詩「隣人」に書いた)。

 〈わたし〉のトランスパーソナル。自己の拡張。「何の疑いもない。安全保障のための正当な攻撃(解放)。責任は相手にある」私を攻撃する人も、プーチンと同じことを主張する。〈わたし〉を無意識に「ウチ(内、家、国)」に一体化すること。争いは、「ウチの安全」のために起こる。


 私にも〈わたし〉がうごめいている。仏教レベルで〈わたし〉を消去できるか。短時間なら可能だが、意識と感覚が機能している限り、つまり生きている限り、それは、非常に困難だ。

 

 太宰治のいう悪「無意識の殴打」を人々は行使する。しかし誰も何も考えず、無意識に、浅いところで、スルーだけをして生きているのではないだろうか。私の精神はいよいよオカシクなってくる。いたるところで闘う。もめる。自己愛がある限り。誰か、ひとりでも、味方がほしい。

 

 自分の感受性と他人・社会の感受性を区別できるか。自己愛が動機にありながら、外形的には善い行為をなし、無意識に攻撃する。境界線が消え、無意識の中で自己愛を他者愛と混同する時、悪は生まれると私は思う。私もこのからくりから無縁ではない。

 

 これは、そんな中で、「愛」「無意識の殴打」を解明しようとして書いた文章の断片である。

 

詩:ゾンビ

 

蘇った死人が徘徊する時間になると

ひとりでに目を覚ます

この死人には知覚がない 痛みを知らない

自分のも ほかの生物のも だから

創傷を刻むことは

彼の痛みでも ほかの生物の痛みでもない

剣を突く 槍を刺す 斧を振り下ろす

まるで潰すことを 痛覚の鑑賞を

彼の彼であるゆえんとして

確かめるかのように

意志はなく 認知もないゆえ

創傷を刻んでいる

自覚はない

 

いつ襲われるか

死人が休息するまで

一時たりとも安眠できない

躰は硬直し 緊張を解くことはできない

長い長い逃亡の末

疲労困憊したわたしは

朦朧とする頭で

幻夢を見る

徘徊する死人が

さまざまな音や心象に変化し

怪奇映画を上演するさまを

夢が現か? 叫ぶとそこは

まぎれもない夢の続き

 

太宰治は悪とは何か?と問われ

無意識の殴打

と答えた

キリストは十字架にかけられ

神よ、彼らをお赦しください

彼らは 何をしているのか自分でわからないのです

といった

 

知覚なく 痛みなく

意志なく 認知なく 

自分であることの

意識すらないならば

剣を突く 槍を刺す 斧を振り下ろすことは

善ですか?

悪ですか?

血の盃は わたしひとりで飲むものですか?

長い年月 刻まれた創傷を

舐めるだけで命の灯は

尽きますか?

死人の振り下ろす武器は

愛の抱擁ですか?

愛のヴェールは悪の

源泉ですか?

 

神よ、わたしをお赦しください

いっそわたしを お赦しください

 

 

手記
写真は反論を書き連ねた手記。加害者に渡し、私の文章にコメントをつける形で返ってきたが、「無意識の殴打」によって精神に深手を負い、不眠が悪化するのではと恐ろしく、3カ月間も読むことができないでいる。

【4/13追記】返信のコメントを、10日以上かけて分析しながら読んだ。プーチンの主張と同じ。「無意識の殴打」に満ちた文章で、鬱になった。

〈自己愛〉と〈他者愛〉のはざまで(1)愛と暴力

 半年ほど前、身近な人(父)から暴力を受け、心を支えるために、手記(100頁ほど)を書いていた。感覚過敏でパニックを起こしたのが発端にある。

 身近な人 E氏(医者)に相談したが、それは「愛」と言われ、いよいよ追い込まれた。(検索されたくないので、あとで曖昧な表現にする予定。)

 

 あまり外に出られない事情があり、逃げ場所がなかった。家の中で四六時中、臨戦態勢。どんなに疲労困憊していても休むことができず、音に襲われる悪夢、幻聴、金縛り、夜驚が頻発し、泣きながら寝る日が増えた。交通事故を起こしかけた。薬は2倍に。最近やっと落ち着いてきたが、睡眠障害と闘う日々は続いている。

 

 信田さよ子氏はいう。家族には暴力など存在しないと2000年代初めまで考えられていた。暴力は受ける側に問題がある。なぜなら家族は愛情で結ばれているという常識があるから、と(※)

 

 何人かの専門家(発達障害含め)に相談したが、みなこの常識から無縁ではなかった。それで私は、専門家とも闘う羽目になった。精神に異常をきたした。

 助けを求めても、逆にセカンド・ダメージ(二次被害)を受けてしまう。彼らは彼らなりに、一生懸命仕事しているのはたしかだ。しかし、どんなに頭脳労働についている人でも、自分が実際に被害を受けない限り、問題を軽視すると知った。殴打された者だけが気づき、その事実を知っている。

 

 私の目の前にいるのは、男性優位の社会に無意識にあぐらをかく男性たちと、そうした価値観を無意識に内面化した女性たちだった。(私も例外ではない。)

 男性は男性で、覇権社会から暴力を受ける。その暴力が女性や子どもに連鎖する。問題は、この社会的な構造と、人々の無意識にある。

 

※「暴力の問題 知ることが生きる力に」朝日新聞記事2022.2.13

  信田さよ子『家族と国家は共謀する』角川新書

詩:時の陽光

(おまえが悪い

 んじゃない

 こんがらがった糸が

 悪いんだ)

 

長い 長い争いは

鎧に覆われた

懐の内側に

深手を負わせた

血の滴る

鉄錆の心臓を

みずからの手で

切り裂きながら

(いつか 縫い合わせるのだ)

 

(深手を負ったのは

 おまえだけではない)

 

色めく 春の暖光も

鉄錆の谷間に 届きはしない

春も夏も秋も冬も

時を失った心に

躰に降る 時だけが

春を運ぶ

砂時計の流砂

の零れるような

時の陽光が

ひと砂ひと砂

鉄錆の谷間に

さらさら 降る

降る

降る

 

氷層を

ひとひらずつ

淡い日差しに

融かして

日記:家庭内暴力

 私は家族に暴力を振るったことがある。それは悪だった。暴力を肯定しているわけでは決してない。

 

 ただ、密室で暴君化した人々の行動原理を想像してみてほしい。「暴れる」には、「そうならざるを得なかった経緯」「そういう衝動に至った背景」が必ずある。

 

 その人の怒りをかき立てるようなことを、まわりの人がしてきた。その怒りを無視した。だから復讐している場合がほとんどなのだ。私のような立場に置かれている人には、たいていこの図式が隠れていると思う。

 

 何もないところでは、絶対に、絶対に発生しない。

 

 「行動」だけに焦点を当てても問題は解決しない。そういう「行動」に至った、全人格的な「背景」「歴史」「心理」に目を向けなければ、復讐の連鎖はなくならないだろう。

詩:囲う家

代々結び目をつくる

根の先端のある家で

私は私を組織する

傷の修復

武器の研磨

空腹の解消

 

――でも

包み込む布団が

 絞め上げたら――

育んだ土が

 生き埋めにしたら――

緑の源泉が

 毒を流し込んだら――

組織する栄養が

 牙を剝いたら――

 

――風雪から守る 屋根が

 あぁ、重い、重い、

――盗人の侵入を防ぐ 壁が

 あぁ、きつい、きつい、

 

地縛霊のように

床板に縫いつけられて

金縛りの夜驚が

厚い壁を震わす

 

あの軽やかな空気を

自在に運んでくる

窓があったら――

錠の外れた

敷居の跨ぐことのできる

扉があったら――

エッセイ:社会的に作り上げられた「家庭とはこうあるべき」は解体したほうがよいのでは?

 何十年も前から言われてきたことだが、発達障害の子どもを持つ親、とくに母親の苦しみは、想像を絶する凄惨さである。森口奈緒美さんの『自閉女の冒険』を読めば、明らかである。私の母は、知的な困難があるので、そのような葛藤はたまたま免れたものの、父は苦労した。

 

 ひきこもる子どもを持つ親の話を聞くと、誰もが深く傷ついている。子どもの傷はもっと深い。私の見聞によると、死を考えていない人はほとんどいなかった。

 

 個人の特性、学校、会社、病院に至るまで、社会の広範な範囲にわたって、問題は複雑に絡み合っている。こうした社会の矛盾を、家庭は一心に引き受けて、消尽していく。

 

 家庭はあたかも傷口を封印された密室である。社会の矛盾の掃きだめ場である。どう考えても、すべての社会問題を家庭に押し込めようという発想に無理がある。

 

 明治期以降、国の下部組織としての家庭の理想像が政府によってつくりあげられてきたという。あたりまえに浸透している「家庭とはこうあるべき・こうあるもの」を解体し、成員を個人として捉えたほうがいいのではないかと私は思う。

 

 しかしながら、日本人の個人は世間が神のようなものだという(※)。世間を神にし得ない者はどう生きるべきか? 家族の外に、個人を支える共同体か、あるいは宗教が必要になってくると思う。

 

(2022.3.28)